目黒の五百羅漢寺の羅漢像を彫り上げた松雲元慶に影響を与えた笵道生 (1/5ページ)

心に残る家族葬

目黒の五百羅漢寺の羅漢像を彫り上げた松雲元慶に影響を与えた笵道生

東京都目黒区下目黒に、五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)がある。もともとは本所五つ目(現・江東区大島(おおじま))に所在していたが、明治41(1908)年に、現在地に移り、今日に至っている。五百羅漢寺といえば、近世日本の彫刻史に名を残し、寺の名前でもある「羅漢さん」、すなわちパーリ語のarhat(アルハット。「聖者」「人々から供養・施しを受ける資格がある人」「尊敬に値する人」)の音写・阿羅漢(あらかん)こと、お釈迦様の眷属として考え出された修行者たちの木像が有名だが、それをつくったのが、京都出身の仏師(ぶっし)・久兵衛こと、松雲元慶(しょううん・げんけい、1648〜1710)だった。

■仏師・久兵衛こと松雲元慶が羅漢像を作るまで

11、2歳の時、仏師屋に奉公に上がった久兵衛は、全ての工程が完全分業体制だった当時の仕事ぶりや彫刻そのものに強い疑問と反発を抱くようになっていった。とはいえ、そこから脱することもままならない。そうした中、久兵衛は、鉄眼道光(てつげん・どうこう、1630〜82)と出会う。

鉄眼は寛文4(1669)年に一切(いっさい)経刻蔵(こくぞう、印刷・出版・頒布、そして後世に残すこと)の発願を立て、資金行脚を行っていた。そんな鉄眼に心打たれた久兵衛は、鉄眼の弟子・松雲となり、厳しい修行の合間に仏像を彫ることとなる。その後、松雲もまた、仏道修行のために諸国行脚に出たのだが、全国の羅漢寺の総本山である豊前国の羅漢寺(現・大分県中津市)を訪れた際、日本最古の五百羅漢像を目にして、深い感銘を受けた。そして松雲は貞享4(1687)年、五百羅漢像造立を志願し、江戸に下った。そこで浅草・浅草寺の門前や周辺を歩いては「五百羅漢造立勧化(かんげ)」ののぼり旗を持って、わずかな施しを受ける日々を送っていた。とても貧しい生活に陥った松雲は、とうてい羅漢像完成には程遠いと絶望しつつも、鉄眼と同じ門下であった向島(むこうじま)・弘福寺の鉄牛道機(てつぎゅう・どうき、1678〜1700)を訪ねた。厳しい言葉をかけつつも、鉄牛は松雲への支援を惜しまなかった。それに勇気づけられた松雲は、夜間の制作と昼間の街角での喜捨を求める生活を続けた結果、発願から10年以上の月日が経過した元禄4(1691)年、1体の羅漢像完成にこぎつけた。

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