スピリチュアルの胡散臭さと危険性は一切否定の余地なしではあるが… (1/3ページ)

心に残る家族葬

スピリチュアルの胡散臭さと危険性は一切否定の余地なしではあるが…

スピリチュアル、スピリチュアリティという言葉には胡散臭い印象が少なからずある。宗教絡みの事件事故も多い。しかし何事も付き合い方次第ではないだろうか。安心安全なスピリチュアルライフを送るにはどうすればよいか。

■スピリチュアルの危険性

いわゆるスピリチュアルの危険性は挙げればキリがないが、特に厄介なのは自意識の肥大化である。哲学などを学んでいる人によく見られるのだが、精神的な世界で抽象的な概念を操っているせいか浮世離れが甚だしくなる。さらに一部の人は現実世界を軽視し、常識を疑うようになる。常識を疑えというのは悪いことではないが、この場合はあまり良い方向ではなく疑うというより見下しに近い。元々が現実世界に寄与する分野ではなく、大抵は食えないので不遇をかこつことの方が多い。そのルサンチマンもあってか、ある種の偏狭な特権意識が芽生えてくる。「俺は金も地位も無いがそんなものは下らない。俺は精神的なエリートだ」というわけである。

■「混ぜるな危険」の宗教とスピリチュアル

これが宗教となるとさらにタチが悪い。純粋理論の哲学と違い神仏や超越的存在といった「他者」が介入してくるのである。「神が降りた」「光が見えた」「天の声を聞いた」者の下には現実に苦しむ人たちが救いを求めて集ってくる。教祖となった者にはそれなりのカリスマが宿るものである。信者たちには教祖の言葉が絶対となり、これが最悪の方向に進むと霊感商法、インチキ療法、「除霊」と称したリンチ殺人、天国へ行くなどとして集団自殺にまで発展する場合などがある。現状の不安不満をこの世を超越した価値観に寄り添うことで満たされたい自意識の肥大化がもたらす悲劇である。

これらにはニーチェ(1844〜1900)のキリスト教批判がそのまま当てはまる。迫害されたユダヤ人は唯一神に選ばれたとする選民思想にすがり、その後成立したキリスト教は富める者より貧しき者を優位に置いた。ニーチェによれば、キリスト教はこの世の不遇をあの世の裁きで晴らす恨みつらみの宗教ということになる。また、現代スピリチュアル文化は新旧問わず特定の宗教宗派に属さない脱組織化、個人化の傾向が強いが、これには危険な面もある。

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