そりゃ祟りたくもなる…”毒親育ち”の崇徳天皇が最恐の祟り神になってしまった理由 (2/4ページ)
それを裏付けるように、鳥羽上皇は崇徳天皇を叔父子と呼んでいます。叔父子とはつまり、妻と父(白河法皇)の子であるという意味です。
また白河法皇は崇徳天皇非常に可愛がっていました。崇徳天皇が5歳の時には、当時の鳥羽天皇上皇に退け、崇徳天皇に譲位させています。
こうして崇徳天皇と鳥羽上皇の親子関係は、破綻に向かって加速していきました。
止まるところを知らない陰湿なイジメ白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇によるいじめはより一層表面化します。
例えば鳥羽上皇は、20歳の崇徳天皇に対し、若干3歳の異母弟である近衛天皇に譲位するよう迫りました。しかし体の弱い近衛天皇は、わずか17歳で崩御。
すると鳥羽上皇は、後任として崇徳天皇を呼び戻すのではなく、崇徳天皇の弟である後白河後天皇を即位させています。
兄弟の直接対決と島流し崇徳天皇と弟である後白河天皇の関係性も破綻しています。鳥羽上皇崩御の際、崇徳天皇は葬儀はおろか、初七日の法要に参列することも許されませんでした。