品川区西五反田の行元寺前の石碑に記された敵討ちを是とする隠語 (2/4ページ)
つまり浅草に公園があることから、「浅草」を意味するなど、ある特定の集団や「業界」で秘密を保持し、同時に集団の外では通用しない「共通言語」を使うことによって、仲間内の団結意識を固める役割を果たす言葉である。
■石碑の裏面に記された隠語の内容とは
この石碑の裏面を読み解くと、「‘癸卯(みずのとう)の天明3年10月8日’/二と人の文字を重ねて‘天’、九と人の文字を重ねて‘仇’となり、‘天を戴かない仇’、すなわち、‘不戴天の仇は誰’/同の字の下に田の字があるのは‘冨’、十一口と書くと‘吉’になるので、それらを合わせて‘冨吉’/湛の字に‘水’の‘さんずいがない’ので‘甚’、納の字に‘糸がない’ので‘内’、それらを合わせて‘甚内’」となる。つまり、天明3年10月8日に、不戴天の敵は誰だと冨吉が何年もかかって探し求め、とうとう甚内の敵討を行ったことを表しているという。当初は、行元寺の本尊である、恵心僧都(942〜1017)作と伝えられる千手観音にちなんだ経文2句のみが表に刻まれていたのだが、敵討から三十三回忌に当たる文化12(1815)年に、裏面が追加されたという。
■明治になって敵討禁止令がだされた
敵討は、中国古代の『周礼(しゅうらい)』『礼記』、そして孔子(紀元前552/551〜紀元前479)などが、父の仇を非常に強い恨みや憎しみである「不倶戴天」として認めていたことに影響を受け、日本においては古墳時代の眉輪王(まよわのおおきみ、450〜456)が、父を殺して母を皇后とした安康天皇(あんこう、401〜456)を殺したことに始まり、明治6(1873)年2月の「敵討禁止」の国法が公布されるまで、さかんに行われていたという。特に江戸期においては、敵討ちは頻繁だった。
■敵討ちが許されていた背景とは
それは封建制度の確立により、上下関係に厳格な武士階級において、忠臣・孝子の美徳として讃えられてきたこと。