品川区西五反田の行元寺前の石碑に記された敵討ちを是とする隠語 (1/4ページ)
人が誰かから、いじめや誹謗中傷などの理不尽な仕打ちを受けた際、それを耐え忍んだり、運命だと諦めたり、「よくあること」「辛い気持ちは、時が解決してくれる」などとやり過ごしたりすることなく、仕返し、敵討ち、リベンジ…いろいろな言い方があるが、いわゆる復讐を行うことは、許されるものなのだろうか。
■品川区西五反田の行元寺の前に建てられた石碑
東急目黒線・不動前駅からほど近い、東京都品川区西五反田に行元寺(ぎょうげんじ)という小さなお寺がある。その前に「隠語碑」と呼ばれる、1m弱の石碑がある。
明和4(1767)年に、下総国早尾村(現・茨城県北相馬郡)の百姓・大崎庄蔵は、村内の宮条甚内と口論となって、殺された。甚内は罪滅ぼしにと、隣村の寺に出家したものの、江戸に出奔し、下級武士となった。そこで庄蔵の息子・冨吉は、父親の仇を打つために江戸に出て、剣術を学び、その機会を窺っていた。時を経て天明3(1783)年に、冨吉は神楽坂で甚内と再会し、行元寺に追い詰め、念願を果たした。事件当時12歳の少年だった冨吉は28歳、甚内は45歳だった。
もともと行元寺は、明治40(1907)年に移転するまで牛込肴町(うしごめさかなまち、現・新宿区神楽坂5丁目)に所在していたのだが、寺内で軍学を教えていた南多門(塚田大峰(1745〜1832)のことか)が冨吉の念願達成を喜んで、行元寺の住職・休心和尚が願主となった石碑を、天明3〜4(1783〜84)年に立てたと言われている。
碑文は、狂歌師「蜀山人(しょくさんじん)」の名で知られる、幕臣で文人・学者でもあった大田南畝(なんぽ、1749〜1823)の撰文で、正面に「念被觀音力/還著於本人」、裏面に「癸卯天明陽月八/二人不載九人誰/同有下田十一口/湛乎水無納無糸/願主/南畝子 休心」と彫られている。この裏面の文が、「隠語」なのだ。
■隠語とは
「隠語」とは、例えば1960年代末期の、東京・浅草の博徒やテキ屋の間で「エンコ」と言えば、さかさ言葉で「こうえん」のこと。