現代アーティスト 内藤礼が問う「命」 (2/3ページ)

心に残る家族葬


ある展示会では広い屋敷のそこかしこに小指半分の人形がぽつりと立っていた。うっかりすると見落としてしまう。子どもたちが宝探しみたいにはしゃいでいた。吹き飛んでしまいそうな、あえかな「ひと」。か細く、弱々しく、ほわほわした、うっかりすると踏み潰してしまいそうだ。
弱々しい光が広い広い世界の中で、「すみません、ちょっとここにいていいですか」とばかりに所在なさそうに語りかけてくる。翻ってみれば我々とて世界の中にぽつんといる「ひと」である。だだっ広い豪華な部屋の大きい鏡に小さい「ひと」がひとりぼっち。世界の広さに潰されそうなちっぽけな光。それは我々自身の姿である。内藤のテーマ「生きていることは、それだけで、祝福されるのか」を突きつけられる。命は弱い。そして温かい。どんなに勉強ができてもわからないことがある。それは考えるのでなく感じるしかない。

■「生の外」からの風景

内藤はベランダから自宅の窓の明かりがともる部屋を見たとき「なにかひとりのひとの小さなけれども、それがすべてである人生を垣間見たような、切なさに胸が締め付けられました」との体験をしている。また「<生の外側>から<生の内側>を見る慈悲の体験だったのではないか」とも。 インタビュアーからこの体験について問われた内藤は「自分を見た」「私の生の全体が、ふわーっと見えた」と答えている(詳細)。
自分の生活空間を照らしている小さい明かりは自分の「生」そのものだったのだ。この「生」の明かりは、夜の街に浮かぶ何十万何百万ある光のひとつに過ぎない。消えても世界に何の影響を与えない無名の光。病気、事故、凶行…らによって簡単に消し去られてしまう。それでもいじましく命の光を放っている。内藤は自分自身がそんな健気な命であることを<外側>から見た。そして愛しさを、慈悲の念を抱いたのではないだろうか。

「生きている人が死者を慰めることがあるけれども、これは逆です。生きている人が死者のまなざしで、生きている人を見つめる。ベランダの外から家の中を見たときの私の感情が、そうだったと思います。
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