現代アーティスト 内藤礼が問う「命」 (3/3ページ)
生きている人へのいとおしさや慈悲、さきほども話したけれども、そういうものが自分に対して生まれた」(詳細)
死者のまなざしで生きている人を見つめる。これは内藤の作品を見つめる我々の視点でもある。吹けば飛ぶような細く弱い光を放ち、生命と存在を控え目に伝えてくる彼女の作品。命が何故尊いのか。なぜ愛しさを感じるのか。それは理屈ではない。理屈で言うならひとの命は決して地球より重くはない。今日も理不尽な理由で多くの命が散っている。それでも内藤礼は問い続ける。
「生きていることは、それだけで、祝福されるのか」
■命の学び
件の少年は高偏差値で優秀な成績だったようだ。試験に文学や宗教の問題が主題されても要領よく答えただろう。「慈悲」や「愛」などについて問われても模範的な解答を並べるに違いない。それは蓄積された知識、情報に対する処理能力が優れているだけ。AIと同じである。
知識を詰め込む「勉強」も必要だが、それ以前に大切な「学び」がある。世の中には「命」や「生」と「死」について教えてくれる様々な芸術や文学がある。受験勉強を通じてさえ、学び方によっては、例えば生命の営みなどの中に見出すことができるはずである。知識偏重の現代において子どもにそのような「命の学び」を与えることは大人の務めではないだろうか。
■追記
内藤の作品を観ていた筆者の隣に、5歳くらいの女の子と母親がいた。しばしの時間が流れた後、女の子が小声で囁いた。
「おかあさん」
「なに?」
「大好き」
彼女は何を思って囁いたのか。なんとも心地よい、あえかなる空間の一幕だった。