福岡県筑紫野市の山家にある伊東マンショの墓に残る伝説を調べてみた (2/5ページ)

心に残る家族葬

1570〜1612)の「マンショ」、または満生家の家伝書によると、伊東マンショとは従兄弟同士になる、日向国(現・宮崎県)の戦国武将でキリシタンだった伊東義賢(1567〜1593)が1587(天正15)年のキリシタン追放令以降に始まった、弾圧の難を逃れるために出奔し、落人同様の身だったものの、安住の地を山家宿に見い出した。そこで「伊東」から、洗礼名Mancioの「満生(まんしょ)」に姓を改め、現存していないが、表向きは仏教寺院の「普門寺」を建て、自らが教主となって余生を過ごした。また時が経ち、満生の「まんしょ」が「まんしょう」となった、という話も伝わっている。

■長崎だけでなく福岡の山家もキリシタン交流の場だった可能性は高い


「墓」を含めた「キリシタン」といえば「福岡県」ではなく、国宝であり、2018(平成30)年には世界遺産にも選ばれた大浦(おおうら)天主堂が所在する「長崎県」と思われがちであるが、かつて山家地区は、江戸時代に、出島(でじま)における唯一の外交の窓口であった長崎と江戸を結んだ、旧長崎街道の筑前六宿(黒崎・木屋瀬(こやのせ)・飯塚・内野・山家・原田(はるだ))の一宿だった。しかも山家宿は長崎街道ばかりでなく、現在の大分県に通じる日田(ひた)街道、そして現在の鹿児島県に通じる薩摩(さつま)街道が交差する「場所」でもあったことから、江戸幕府の役人たちが毎年の交代時や、九州東部を除く諸大名が参勤交代の折には必ず立ち寄る、いわゆる交通の要衝でもあった。そのように多くの人が行き交う地域でもあったことから、山家を訪れた「キリシタン」がいても、不思議ではなかった。

■伊東マンショの墓に眠る人物は伊東マンショでも伊東義賢でもない

伝説の主人公である「伊東マンショ」は1590(天正18)年7月、日本に帰国。翌年に聚楽第(じゅらくだい)で天下統一を果たした豊臣秀吉(1537〜1598)と謁見し、自らの体験談を語り、洋楽器を演奏した。

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