福岡県筑紫野市の山家にある伊東マンショの墓に残る伝説を調べてみた (3/5ページ)

心に残る家族葬

その後、イエズス会に入会したマンショは天草(現・熊本県)の修練院を経て、1601(慶長6)年にマカオに渡り、神学を3年間学んだ。司祭となってからは、主に豊前国の小倉(現・北九州市)を中心に宣教活動を続けていたが、長崎で病死した。43歳だった。

そして洗礼名はマンショではなく、バルテルミー(Barthelemy)だった「伊東義賢」であれば、いわゆる「朝鮮出兵」の文禄の役(1592〜1593)に出兵したものの、帰りの船の中で26歳の若さで病没、または家督争いの果てに謀殺されたという。

こうしたことから、山家に流れ着き、「隠れキリシタン」として一生を全うした人物が、「伊東マンショ」或いは「伊東義賢」その人だったとは考えにくい。可能性としては、伊東一族内のキリシタンだった人物か、または聖職者としてキリストの教えを説いていたマンショに強く感化されたことから、彼の死後に、自ら「マンショ」を称した信徒または聖職者のひとりだったのではないだろうか。

■伊東マンショの墓がキリシタンの墓であることは間違いなさそうだが

いずれにしても、小松和夫が指摘するように、かつて宿場町として大いに栄えた山家宿という「場所」だったからこそ、「キリシタン寺」の普門寺を興した「伊東マンショ」を称する人物が亡くなってから、「キリシタン墓」の「マリア地蔵」。その人物を源とする、「満生」という苗字。今となっては消えてしまっているが、「小字普門寺」や「小字道徳」といった、「キリスト教の香り」が濃厚な地名…が存在するのだ。

秀吉のキリシタン追放令だが、お膝元の畿内(現・近畿地方)では宣教活動が縮小を余儀なくされたり、その他の地域でも、確かに「迫害」がなされたりしていたものの、1614(慶長19)年の徳川幕府による禁教令ほど、信徒や海外からの宣教師の追放・捕縛・処刑、そして教会の破壊などが行われるほど苛烈なものではなかった。それゆえ「キリシタン」は、日本中の至るところに存在していた。

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