福岡県筑紫野市の山家にある伊東マンショの墓に残る伝説を調べてみた (1/5ページ)
民俗学者の小松和彦(1947〜)は『「伝説」はなぜ生まれたか』(2013年)の冒頭で、「伝説は植物のように、特定の地域で、特定の場所や事物や人物にからめて語られている。したがって、その話をそのまま別の場所に容易には移植できない」と語っている。特定の「地域」において、ある「事物」、そしてそれに登場する「人物」について「語られる」。言うまでもなく、「よそ」では決して「語られない」ために「耳にしない」。それゆえにその「地域」の地理・歴史・文化、そしてそこで暮らす人々を物語る伝説や民話は、日本国内はもちろんのこと、世界中の至るところで多く見られる。それらは日本においては、例えば「桃太郎」「浦島太郎」…など、特定の「地域」を超え、国民的に有名な「人物」の話もあれば、それとは全く逆に、地域においても、伝説そのものが一部の古老にしか記憶されていないものもある。
■隠れキリシタンによって建てられた可能性が高い伊東マンショの墓
福岡県中央部の西寄りに位置する筑紫野市の山家(やまえ)に、「伊東マンショの墓」とされるお墓がある。山家地区の中心部に山家宝満宮(ほうまんぐう)が鎮座している。その裏山に、かつて「道徳(どうとく)」と呼ばれていたこの地域の旧家・満生(まんしょう)家の墓所があり、そこに首がない地蔵が祀られているのだが、胸に天使の羽が刻まれているという。それは、筑紫野市から南に下った久留米市山川神代(やまかわくましろ)の安国寺(あんこくじ)内に所在する「マリア地蔵」によく似ており、いわゆる「隠れキリシタン」が建てた墓であると推察されている。
■マンショという名前の由来とは
そして山家地域に多い「満生」という苗字は、1582(天正10)年2月の「天正遣欧使節」において、豊後のキリシタン大名・大友義鎮(よししげ、宗麟。1530〜1587)の名代として、12歳で長崎を出発し、ポルトガル〜スペイン〜イタリアなど、ヨーロッパのカトリック国を訪問した伊東マンショ(満所。日本名は不明。祐益(すけます)とも。