新選組・沖田総司にはなんと娘もいた?「沖田縁者の墓」にまつわる謎、その2。 (3/3ページ)

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また、「往詣記」自体にも誤りがないとは言えません。

実は「大阪 酒井意誠吊」の書き込みは、明治41年に住職となった盛誉さんの手によるもの。光縁寺は安政2年~明治31年まで住職を務めていた良誉の死後、無住になってしまい、その後に盛誉さんが復興したのです。なので、書き写したときに誤りがあったとしてもおかしくはありません。

また「意誠」という名前も、新選組の「誠」の字が使われていることから、なにか出来すぎのような気もします。

結局、「歴史と旅」の話を裏付ける確証が他に見当たりませんでした。沖田総司自体の姿も謎ですし、それに輪をかけて「沖田氏縁者」は新選組最大の謎として、今後も暴かれることはなさそうです。

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