浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【後編】

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浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【後編】

「自分の身を犠牲にしてでも誰かを救いたい」という想いは、そのやり方の違いはあっても古くから存在する考え方の一つだと思います。

そしてそのような考えから得られる結果は悲劇的な事が多いのも事実でしょう。前編に引き続き、月岡芳年(つきおかよしとし)の名作『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』にどんな背景があったのか、ご紹介していきます。

前編の記事はこちら。

浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】

銭屋五兵衛、干拓事業の失敗 『六十余州名所図会』加賀 金沢八勝之内蓮湖之漁火 画:歌川広重 ウィキペディアより

『六十余州名所図会』加賀 金沢八勝之内蓮湖之漁火 画:歌川広重 ウィキペディアより

銭屋五兵衛を登用し御用金の調達の後ろ盾とも言える“奥村栄実”が亡くなると、奥村と対立していた“黒羽織党”と呼ばれる一派が台頭し、五兵衛の立場は微妙なものとなっていました。

五兵衛は河北潟の干拓・開発工事を齢80手前という時に請け負うことになります。
干拓事業は五兵衛の夢であったとも言われています。新田の開発によって人々の作物の取れ高が上がれば、飢饉の続くその頃の状況にも改善をもたらすのではないかと考えたのです。

しかし河北潟は“蓮湖”とも呼ばれ、遠く白山連峰の山並みから昇る朝焼けや、 日本海に沈む夕日など景観が素晴らしく、シベリアから飛来する渡り鳥も多く見られ、植物や魚介類が豊富に獲れたので、沿岸の住民の中には漁業で生計を立てていた者もいました。

そのような事情もあり近辺住民からの激しい反対を受けて、干拓事業は思いもよらぬほど長引く事態となったのです。

やがて地域住民から“何故、銭屋五兵衛はあのような金持ちとなったのか”というような不満が広がり、やがて工事に使用した石灰が原因で、“魚が大量に死んでいるのを見た”と住民達の中で大騒ぎとなります。
しかもその死んだ魚を食べて死亡する人まで出てきました。

そのうえ“銭屋五兵衛は抜け荷をして大儲けしたらしい”との噂までが流れ、ここまで不穏な事態に及んでくるとお上も黙って見過ごすことは出来なくなります。

そして銭屋五兵衛は「湖に毒物を流した」という罪により、子の要蔵ら11名とともに投獄され、厳しい取り調べをうけることとなってしまうのです。

銭屋五兵衛、獄中に死す

五兵衛は『毒を流すなど全く見に覚えがない』と主張を続けます。

藩医も湖埋め立て工事が魚が死ぬ原因とは断定できないと報告しましたが、結局、五兵衛は獄中での厳しい状況に耐えられず80歳で獄死してしまいます。

五兵衛だけでなく一族郎党が全て有罪とされ処刑者の総数は50人に達しました。

更に家財没収と家名断絶が申し渡されました。前田家の担当者の試算によれば家財没収の総額は20万両(現代の貨幣価値で100億円)にのぼり、これを没収したことにより加賀藩の財政悪化はひと息付きついたということです。

酷い話ですね。

千賀・百日駆込訴

そこで最初の『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』の話に戻ります。

月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子 画:月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子 画:月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

祖父・銭屋五兵衛含め一族のほとんどが投獄された後、加賀藩にも多少の情けか後ろめたさがあったのか、千賀は罪を問われずに済んだようです。

千賀は無実を信じ、高齢の祖父や病気がちな父親・喜太郎の身代わりとして牢に入ることを願い出ます。
「百日駆込訴」といって、直接公事場へ早朝に顔も髪も洗わず素足で百日の間、数里の道を駆けて懇願したといいます。

けれども役人たちは、乱暴に彼女を門外に突き放し取り合おうとはしませんでした。

しかし、一日も休むことなく神仏の加護を深く念じた彼女の孝行心が世間の同情を買い、藩主を動かして、父の喜太郎・叔父の佐八郎は釈放されることになったのです。

ところが、千賀は「百日駆込訴」の疲れから病となり、26歳の若さで亡くなってしまうのです。

つまり千賀(ちか子)は自殺した訳ではないのです。

するとこの絵が描いたものは何でしょうか。“自分が身代わりになる”という強い祈りの現れでしょうか。

父・喜太郎のその後

喜太郎は釈放されたものの無一文の状態でこれから先どうしたものかと、富山・福光の生糸問屋、前田屋源兵衛を訪れることにしました。

福光の生糸は国内は勿論、銭屋五兵衛の密貿易によって外国にも渡り、その名声を博していました(そうすると鎖国時代以前に海外貿易したことになるのですが)。

前田屋源兵衛は銭屋の資本のひとつである“福光の糸”を残らず買占めて預け置いた家で、そのおかげで財をなすこともできた家です。

喜太郎は妻を従えて前田屋を訪れ、行末を相談しましたが、前田屋は小判数枚を与える他にはとりあうこともせずに、喜太郎夫婦を追い返しました。

喜太郎夫婦は“城端”の善徳寺に参り、刑死した一家の菩提を弔って、僧になろうと山田野の路を苦悩を抱えながら進むのですが、喜太郎は遂に駕篭の中で自殺を計り、56歳の生涯を閉じるのでした。
駕篭からしたたる血潮を、妻が草履で消そうとするそれは哀れな状況だったようです。

その様子を見た村人達は急いで喜太郎を近くの農家へ運び込んみました。そして人々は懸命に看護したそうですが、喜太郎は56歳で亡くなります。

富山県南砺市宗守(旧福光町)には今でも“銭屋の碑”銭屋喜太郎の碑が町の方々の温かい志によって建てられています。

銭屋喜太郎終焉の地の碑

銭屋喜太郎終焉の地の碑

最後に

豪商であった銭屋五兵衛は人々の為に尽くそうとして、その人々によって結果としては獄死という最後を遂げます。

その息子・喜太郎は、父のおかげで富を得た人に非情にも追い返され、自害をとげることとなります。
しかし、喜太郎を助けようとしたのは、村の人々でした。

月岡芳年が描いた『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』は、娘の千賀を通して描いた父・喜太郎の無念だったのでしょうか。
それとも祖父・銭屋五兵衛の無念さだったのでしょうか。

(完)

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