知れば時代劇がもっと楽しく!江戸時代の処罰「改易」「減封」「転封」の意味や大名の実例を詳しく解説 (3/5ページ)
改易処分を受けた主な武将としては、石田三成・小西行長(斬首)、宇喜多秀家(遠流)、長宗我部盛親(蟄居)などです。
その後、大坂の役で豊臣家が滅亡して戦乱がなくなると、幕府は全国の大名(特に外様大名)の統制方法について頭を悩ませるようになりました。
まず、もともと豊臣家の家臣で、関ヶ原の合戦で東軍についた大名たちをどうするか。江戸時代初期には、こうした外様大名もまだ大きな領地と力を持っており、いかに反乱を起こさせないようにするかが問題でした。
そこで幕府は、次のような大名を改易の対象とします。すなわち、武家諸法度に違反した大名、世継がいないまま当主が死去し、死去直前に急きょ養子(末期養子)を取った大名、お家騒動を起こしたり領民の反乱を招くなどして、統治能力なしと見なした大名などです。
こうして徳川幕府は、大名たちを統制していく一方で、多くの大名を取りつぶして反乱の芽を摘んでいきました。
中には、謂れのない理由で理不尽い改易処分を受けたケースもあります。その代表が福島正則です。
彼は、台風により破壊された広島城の石垣などを、幕府からの正式な許可を得ずに修繕しました。雨漏りの修繕など問題はないはずなのですが、これが武家諸法度違反とされて改易処分を受けています。