源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】 (2/5ページ)

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そして、リーダーである阿弖流為(あてるい)と母禮(もれ)が投降の末、処刑されると組織的な抵抗は終息を迎えることになります。

朝廷は蝦夷を統治するために俘囚の長として安倍氏(陸奥国)俘囚の主として清原氏(出羽国)を命じ、その上に中央から派遣される国司である陸奥守と出羽守を置きました。

安倍氏と清原氏はそれぞれ陸奥と出羽に勢力を張った豪族で、ともに中央の貴族出身と称していました。朝廷は清原氏の出自は中央貴族の清原氏と認め、真人の姓を与えていますが、安倍氏に対してはそれを許しませんでした。

ただ、史実としては安倍氏は朝廷に従い、貢租を収めていました。しかし、最も勢力を拡大した安倍頼良(頼時)の代になると、貢租の上納が停滞気味になります。

なぜ、安倍氏が貢租を渋ったかは定かではありません。だが、頼良の父忠良の頃から権陸奥守に任ぜられており、この頃から安倍氏の勢力が増大し、その支配地域が奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手郡の総称)に留まらない、半ば独立国のような様相を呈していたことは理由の一つとして考えられます。

また、朝廷の威を借りて過剰な貢租を要求するなど、様々な横暴を行う国司に安倍氏が抵抗したとも考えられています。

陸奥国の国府と鎮守府が置かれた多賀城。

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