「鎌倉殿の13人」寄せ集め武士団が大集合で「いざ、鎌倉」第8回放送の予習 (5/7ページ)
史実ではむしろ頼朝の方が亀谷御所(案)に乗り気だったのを、諸事情により諦めたようです。頼朝と御家人たちとの対立を演出するためのアレンジですが、その辺りを汲んでいただけると嬉しいです。
それにしても、亡き父の館跡に御所を開きたいという思いは、生前からよほど慕っていたのでしょうか。
一、梶原景時帰参のこと石橋山の合戦に敗れ、洞窟に隠れていた絶体絶命の頼朝を見逃した梶原景時。大庭景親を見限り、頼朝の元へ馳せ参じるのですが、意外にもその時期は景親が斬られてからしばらくの後。
治承五年正月大十一日戊午。梶原平三景時依仰初參御前。去年窮冬之比。實平相具所參也。雖不携文筆功言語之士也。専相叶賢慮云々。
※『吾妻鏡』治承5年(1181年)大1月11日条
【意訳】梶原平三景時(かじわらの へいざかげとき)が頼朝の御前へ参上しました。昨年の12月に土肥次郎実平(演:阿南健治)が保護していた者です。漢文(当時の公文書)には通じていませんが、言語表現が巧みなので佐殿のお役に立てるでしょう……などと言ったとか。
※当時、朝廷では改元して治承から養和(ようわ)に改元していましたが、頼朝政権では治承の元号を使い続けていました。
大庭景親が斬られたのが治承4年(1180年)10月26日。景時が土肥実平の仲立ちを求めて保護されたのが、それから1ヶ月以上が経った12月(窮冬)。