武田信玄、命を懸けた野田城攻め!「甲斐の虎」の最期の戦いの理由とは? (2/4ページ)
そんな痩せた領地の「貧乏大名」だった武田信玄が、なぜ他国の大名から「甲斐の虎」と恐れられるほどの戦国武将に成らしめたかというと、実はその強さ以外にも、豊富な資金という武器があったからです。
甲斐国の領地内には、豊富な鉱山資源がありました。また彼はこの他にも、甲州市にある黒川金山、身延町にある中山金山など多くの金山を所有していました。
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しかし、鉱山資源に頼り切っている甲斐国の現状が、信玄にとっては逆に悩みの種でもありました。
農作物や海産物と違い、鉱山資源は有限なので、いつか採掘できなくなる日が必ず訪れます。甲斐国が今後も繁栄し続けるためには、新たなに鉱山を手に入れる必要がありました。
偉大な統治者でもあった武田信玄持病を持ち、近いうちに死期を迎えると悟っていた信玄は、自分の命があるうちに国の財政基盤を盤石なものにしておかなければならないと考えていたのです。
もともと信玄は、肖像画ではいかにも頑強で壮健そうな風貌をしていますが、若い頃から持病を患っており何度も吐血したことがあるという記録があります。
武田四天王の一人「高坂昌信(高坂禅正)」の資料『甲陽軍艦』によると、信玄は膈(かく)の病だったとされており、長らく彼は胃ガンまたは食道ガンを患っていたのだろうと推測されています。最近の研究では、「日本住血吸虫症」という風土病だったとも言われています。
いずれにせよ、信玄は若い頃からずっとそんな体調だったので、常に自分の亡き後について意識していたのでしょう。
彼は、三河国の鉱山にまだまだ金脈があると予想して、領土の拡大を目指したのです。