武田信玄、命を懸けた野田城攻め!「甲斐の虎」の最期の戦いの理由とは? (3/4ページ)
野田城は、武田家が新たな鉱山資源を確保するための重要な戦略拠点だったのでした。
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実際、信玄が亡くなった数年後には、三河国の段戸山(現在の鷹ノ巣山)で金鉱が新たに発見されています。
こうして信玄は、1571(元亀2)年に三河に侵攻して手始めに吉田城を攻略しました。そして設楽郡一帯を支配下に置くと津具金山を手に入れ、そして野田城を降伏させます。
これにかかった費用は現代の金額で100億円以上。この戦が、武田家にとって大規模な先行投資だったことが分かります。「自分の命があるうちに、甲斐国の将来のために新たな鉱山を確保しておきたい」という強い思いが読み取れますね。
彼は野田城の攻略後、城の補修工事を行います。そして帰郷の途中、信濃駒場でついに帰らぬ人となったのでした。享年53歳。
彼が、単に「強い武将」だっただけではなく、きちんと未来を見越してものを考える「統治者」でもあったことが分かりますね。