【鎌倉殿の13人】殺しても構わぬ…石橋山で討たれた息子の仇の身柄を預かった岡崎義実の決断 (3/4ページ)
「見ればかの新六めは、与一と概ね同じ年ごろ。信心深い若者を殺しては、与一の成仏に障りが出るやも知れぬ」
また、自分が我が子を討たれて悲しむように、敵にだって(生死はともかく)親はいるはず。

佐奈田義忠が葬られた与一塚(神奈川県小田原市・佐奈田霊社境内)。Wikipediaより(撮影:立花左近氏)
親の怨みが子の成仏を妨げてはならないと考えたのか、義実は新六を助命するよう、頼朝公に嘆願しました。
「かの長尾新六めを、お赦し頂けますまいか」
「ほう。別に構わぬが、その意(こころ)は」
確かに憎い仇ではあるものの、義忠ほどの豪傑を討ち取った勇士なれば、必ずやお役に立ちましょうとか云々。
「相分かった。悪四郎(義実)が忠義、褒めてつかわす」
かくして新六は兄の新五ともども赦され、三浦一族の郎党として武勇を奮います。
エピローグその後、定景は30年以上にわたって頼朝・頼家・実朝の源家三代に仕えました。
こと実朝が暗殺された時などは息子の長尾平太郎景茂(かげしげ)、同じく長尾平次郎胤景(たねかげ)と先登(せんど。一番乗り)を争って犯人の公暁(くぎょう)を討ち取る武勲を立てています。