歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】 (2/4ページ)
それでも、上述の2人のような有名人であれば、いずれは誰かがメスを入れて、その悪評の信憑性を検証するからいい方です。目立たない、比較的地味な人物だとあまり気にもとめられず、いつまでも悪人のイメージが払しょくできないケースもあります。
その実例のひとつが長坂光堅(ながさか・みつかた)です。
武将としての実績皆さんはご存じでしょうか? 武田信玄の息子である武田勝頼の重臣で、史料上では相当評判の良くない人物です。
今回は、そんな彼の悪評がどこまで本当なのかを考えてみたいと思います。
まずは、彼の戦国武将としての実績を見ていきましょう。
光堅は、永正10年(1513年)に武田信虎(武田信玄の父)の家臣・長坂昌房の子として生まれました。実名は長坂虎房というのですが、後に光堅と改名しています。
光堅の名前が初めて登場するのは、武田信玄の信濃侵攻の記録です。この時の彼は足軽大将で、諏訪郡代である板垣信方を補佐する役割でした。当時光堅は31歳。
しかし天文17年(1548年)に上田原の戦いで信方が戦死すると、諏訪郡代の後任として上原城(現:長野県茅野市)に派遣されます。ちなみにこの上田原の戦いは、武田信玄の数少ない痛恨の敗戦の一つです。
