歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】 (3/4ページ)

Japaaan

上田原の戦いで戦死した板垣信方(Wikipediaより)

また、その翌年の天文18年(1549年)には高島城(現:長野県諏訪市)へ入城し、諏訪統治の新拠点を任されました。

その後も、越後の上杉氏との抗争が激しくなると北信濃国衆・香坂氏の取り込みを図ったり、外交面でも遠江の国衆・天野景泰のところへも赴き、本願寺との交渉も任されています。

さらに第三次川中島の戦いでは日向虎頭と共に北信地域の探索を命じられたりするなど、重用されています。また三枝虎吉、室住虎光と共に行政官の仕事もしています。

武田勝頼にも重用される

永禄2年(1559年)に信玄が出家すると、光堅も共に出家しました。この出家とあわせて、長坂釣閑斎と名を改めています。もしかすると、長坂光堅よりもこの釣閑斎という出家名の方が有名かも知れませんが、ここでは長坂光堅という名前で通します。

永禄5年(1562年)に、信玄の息子である武田勝頼が高遠城主になると、光堅はこのことを義信へ伝える使者を務めました。

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