歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】 (4/4ページ)

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武田勝頼(Wikipediaより)

光堅は勝頼とも関係が深く、元亀4年(1573年)の信玄没後も、勝頼に行政官として重用されています。

経歴を見ると、光堅がその才覚を認められたのは年齢的にだいぶ後のことです。ただ、信虎・信玄のたった二代で甲斐の統一から信濃・上野・駿河への勢力拡大までを果たした武田家にとって、代々仕えており実績のある家臣は貴重だったのでしょう。

また、詳細を書くと煩雑になるので割愛しますが、一般的には武田勝頼は武田家の後継者とされていますが、正確にはそうではありません。

正式な後継者は信玄の孫で、勝頼は「後見人」です。この、勝頼の微妙な立場が武田家の結束を弱める結果になるのですが、そんな立場の勝頼をサポートしてくれる光堅のような存在はありがたかったことでしょう。

さて、このように武田家二代に渡って重用され、重職にも就いてきた光堅ですが、彼の「悪評」にはどのようなものがあるのかを【後編】で見ていきましょう。

参考資料
ほのぼの日本史

 

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