歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【後編】 (2/4ページ)

Japaaan

長篠の戦いの前日に、勝頼が光堅宛てに書状を送っているのですが、それによると彼は当時武田領内のどこかの城を守備していたと考えられるのです。

長篠の戦場にいない以上、勝頼に進言するのは難しいでしょう。よって「光堅が敗因を作った」というのは冤罪だと考えられます。

ちなみに長篠の戦いでは、光堅の三男も戦死しています。

また、金銭面での悪評もあります。

天正6年(1578年)に上杉謙信が急死したことを受け、上杉家の家督を巡って上杉景勝と上杉景虎が御館の乱を起こします。

その際、景勝と武田勝頼が甲越同盟を結び、勝頼は資金援助を受けているのですが、『甲陽軍艦』によると光堅は、景勝の家臣を通じてその金を一部横領したというのです。

長篠合戦図屏風(長浜市立長浜城歴史博物館蔵・1750頃~1850頃)(Wikipediaより)

甘言を用い、主君を見捨てた?

この時、「武田四天王」として知られる春日虎綱は、「光堅を追放するように」と勝頼に提言します。しかし勝頼は光堅の甘言に惑わされていたため、進言を受け入れなかったとされています。

しかし実際には、光堅は、甲越同盟を結ぶ際の手続きには関わっていませんでした。

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