歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【後編】 (3/4ページ)
武田・上杉の間を取り次いだのは、小諸城将である武田信豊(信玄の甥で武田勝頼の従弟)で、少なくとも光堅が関わっていた記録はありません。
このように、『甲陽軍鑑』の記述は整合性に欠ける部分があります。
光堅の悪評は、その最期にまでつきまといます。天正10年(1582年)3月、武田家の滅亡に際しての話です。
織田・徳川連合軍の甲州征伐を受けて、勝頼は新府城を放棄しました。そして都留郡の小山田信茂を頼りましたが、信茂に離反されて自害します。
この甲州征伐の中で光堅も命を落としました。享年70歳。
武田家の滅亡について記録した軍記物である『甲乱記』によると、彼は織田側に投降して処刑されたとされています。
また『甲陽軍鑑』でも、彼は現在の甲府市にあたる親族の屋敷で処刑されたとされています。
つまり彼は、勝頼と行動を共にせず甲府に残り投降、そして処刑された「主君を見捨てた奸臣」として位置付けられているのです。
ところが『信長公記』では、光堅が勝頼に最後まで従い、忠義を尽くし戦死したと記録されています。
「口だけ」の人物?これについては、どの記録が本当なのか、簡単に結論を下すことはできません。