【鎌倉殿の13人】あな恐ろし…任務をしくじった鮫島宗家に頼朝が下した罰とは (2/5ページ)

Japaaan

『吾妻鏡』での初見は治承4年(1180年)8月20日。伊豆で挙兵した頼朝に従っており、駿河国からは唯一の参加者となりました。

石橋山の合戦。歌川国芳筆

石橋山での敗戦(8月23日~24日)から立ち直り、再び頼朝の元へ。

同年10月20日の富士川合戦では名前が挙がっていないものの、戦場となった富士川は鮫島郷のすぐ近く。

さすがに対岸の火事(傍観)とは行かず、何らかの活動(拠点防衛、妨害工作など)をしていたものと見られます。

その後も挙兵以来の古参として、宗家は相応の存在感を示していました。

甲斐源氏の有力者・一条忠頼を暗殺

しかし元暦元年(1184年)6月16日、宗家は一条次郎忠頼(いちじょう じろうただより。武田信義の嫡男)の暗殺に際して、失態を犯してしまいます。

……天野藤内遠景承別仰。取太刀進於忠頼之左方。早誅戮畢。此時武衛開御後之障子。令入給云々。其後。忠頼共侍新平太。并同甥武藤与一及山村小太郎等。自地下見主人伏死。面々取太刀。奔昇于侍之上。縡起於楚忽。祗候之輩騒動。多爲件三人被疵云々。既參于寢殿近々。重成。重朝。結城七郎朝光等相戰之。討取新平太。与一畢。山村者擬戰遠景。相隔一ケ間。取魚板打之。山村顛倒于縁下之間。遠景郎從獲其首云々。

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