千羽鶴はありがた迷惑か?千羽鶴不要論から考える正しい「祈り」とは (2/3ページ)

心に残る家族葬

祈りにはどんな高価な品物も大金も及ばない力を持つことがある。千羽鶴も千人針、お百度参りも決して無駄な迷信ではない。

■千羽鶴は不要論とは?問題点は?

だがその上で、被災地や戦場などに送るのはどうだろうか。純粋な想いが現地の人にとってはありがた迷惑、好意の押し付けに陥る危険はないか。

ウクライナ情勢をめぐり千羽鶴不要論が起こっている。現地の人達を励まそうと千羽鶴を送ろうという運動に対して「2ちゃんねる」創始者がツイッターで千羽鶴に対し「無駄な行為をして、良いことをした気分になるのは、恥ずかしいこと」と批判。これに「メンタリスト」を名乗る著名人が「狂気」だと同調した。

確かに現地で求められるのは見知らぬ国、地域への「想い」ではない。その時、必要な何かである。本当に被災者や戦争被害者のことを思うなら、まず現地の自治体などにアクセスして何が不足しているのかを確認することだ。かわいそうだ何かしてやりたい。その感情に振り回されてはいけない。無条件に喜ばれるアイテムなど支援金くらいである。千羽鶴が喜ばれる状況も迷惑な状況もある。送られる人の気持ちを考えないことを自己満足という。その意味では千羽鶴批判の両氏は間違えてはいない。ただ両氏の表現はかなり乱暴で、ただの悪口で終わっている。影響力のある立場なのだから、純粋な「想い」そのものは評価し、正しい方向に導くのが彼らの努めだろう。「想い」そのものまで否定するような言い方だったためか、あるタレントが「送った人が傷つく」と反論していた。しかしこちらはこちらで「送られた人」より「送った人」視点で終わっている。そのタレントと「送った人」は「送られた人」の想いを、批判した両氏は「送った人」の想いを、それぞれ無視している。なぜこのような視点に陥ってしまうのか。

■「私」の存在と菩薩行

「『私』はこんなに心配している」「『私は』の思いを伝えたい」「『私』はそのような行為は認めない」

いずれも「私」が誤謬の元である。他者のことを考えているつもりでも、「『私』が他者のことを考えている」時点で結局は自己が中心になってしまう。自分を捨て、他者のことを考えよ。これが仏教における「無我」と「縁起」の理であり、ここから「菩薩」の思想が生まれた。

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