千羽鶴はありがた迷惑か?千羽鶴不要論から考える正しい「祈り」とは (3/3ページ)
仏教では「無我」を説くが、自分というものが無いというより、むしろすべての存在が自分であるといえる。私たちは親、祖父母、水や空気に大地、天の恵み、どれひとつ欠けても存在できない。すべてが自分を構成する要素である。このつながりが「縁起」である。そのように考えると、他者もまた自分ということになり、他者を救うことが自分を救うことになる。だが「私」が「他者」を救うのではない。「私=他者」であることを悟り「私」を消して他者そのものになる。これが菩薩行である。
前世の仏陀が飢えた虎に身を捧げた「捨身飼虎」の逸話は菩薩行をよく表している。このときの仏陀の想いは「私」ではなく虎にある。「私」に執着している限り虎に身を捧げることなど恐ろしくてできない。仏陀は「私」を消して虎そのものとなり、かつて「私」だった「それ」をエサとしたのだった。
■正しい祈りの形
苦境に陥っている人を想い、祈ることは尊い。しかし「私」に執着している限り、その祈りが他者不在の自己満足で終わる可能性は大いにある。またそれを指摘、批判する方も「私が正しい」という自己満足に絡み取られてしまう。菩薩行などと難しいことを考えなくても、まず他者の気持ちを慮ることが大切である。自分を消して他者になりきり他者の想いと同調する。それが正しい他者への祈りの形ではないだろうか。