たった一日の執権職…鎌倉幕府最後の執権・北条貞将が見せた忠義の心意気 (2/5ページ)

Japaaan

若くして鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう。十三人合議制の後身)や引付衆(ひきつけしゅう。訴訟取り扱い機関)に名を連ね、元亨4年(1324年。正中元年)に討幕計画(正中の変)が起きると六波羅探題として上洛。

京都を押さえた貞将は後醍醐天皇(ごだいごてんのう。第96代)はじめ討幕派の動向を探りつつ治安維持に努め、元徳2年(1330年)に鎌倉へ帰還しました。

しかし討幕の機運は潰えることなく元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の求めに応じて新田義貞(にった よしさだ)が上野国(現:群馬県)で挙兵。

奮戦する新田義貞・楊洲周延筆

これを討つべく貞将は5月10日に鎌倉を新発。武蔵国鶴見川(現:神奈川県横浜市)で新田方へ寝返った千葉貞胤(ちば さだたね)や小山秀朝(おやま ひでとも)の軍勢に敗れて撤退します。

鎌倉へ引き返した貞将は、死闘の果てに自刃した執権・赤橋守時(あかはし もりとき。北条守時)に代わって巨福呂坂を死守(山内の合戦)。激しい戦闘が5月20日から22日にかけて続いたのでした。

「たった一日の執権職…鎌倉幕府最後の執権・北条貞将が見せた忠義の心意気」のページです。デイリーニュースオンラインは、赤橋守時北条高時北条貞顕北条貞将北条氏カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る