生まれた順番に死んでいく「親死 子死 孫死」の幸せと難しさ (2/3ページ)

心に残る家族葬



■親視点で考える逆縁

親よりも先に子が亡くなることを俗に、逆縁の不幸と呼ぶ。 逆縁とは仏法に反する行為を行う重罪「謗法」を重ねることで、仏との負の縁が結ばれることを指し、最大の罪のひとつで最下層の地獄、無間地獄に堕ちるともされる。これが転じて親より子が先立つことを指すようになった。先立つことは親を悲しませる最大の親不孝であり、まさに「親死 子死 孫死」に逆らう行為だからである。仏教説話の世界では、無垢な子供であってもこの重罪を犯した者には容赦しない。親に先立った子供は「賽の河原」で石を積まされる。石を積み終わると鬼がやってきてその石を崩してしまい、また積み上げなくてはならない。恐山にある賽の河原には多くの積んだ石が並んでいる。死んだ子の親たちが少しでも代わりにと積み上げた跡である。

だが、この説話は理不尽ではないか。子供たちは死にたくて死んだわけではない。幼くして死んだ哀れな子供を罪人扱いするのはどうなのか。しかも無間地獄とは酷い話である。賽の河原などの説話は、民間信仰の中で仏教のテイストが加味されて成立した物語であり本来の仏教とは関係ない。哀れな子供に逆縁の不幸を背負わせたのはなぜか。年長者を重んじる儒教的倫理感が見てとれる。当時は子供の人権などは無かったなどの背景もあるかもしれない。

■子供視点で考える逆縁

他方、親に先立った死者の視点の描写であるとも考えることもできる。ドラマ化もされた漫画「妻、小学生になる」(村田椰融作・芳文社)は、前世の記憶が蘇った小学生と、かつての夫、娘らとの交流を描いた作品である(注)。作中、彼女は母親と再会し「先に死んじゃってごめんね」と号泣した。前世の彼女は30代の若さで飲酒運転の車にはねられて死んだ。彼女に罪はない。まったくの被害者である。それでも彼女は逆縁の不幸を悔やみ、ひたすら謝った。罪がどういうという問題ではない。親を悲しませてしまったという事実が彼女を贖罪させたのである。石を積む子供の姿も、死者たちのせめてもの償いを表現したものなのかもしれない。そして親たちは何の罪もないのに自らを責める子供たちのために代わりに石を積む。互いが互いを思いやる哀しくも美しい光景。そう解釈することもできる。
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