鉄砲 VS 弓、達人同士の一騎打ちの行方は?戦国時代、織田信長に仕えた砲術家・橋本一巴の逸話 (2/4ページ)
後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府を翻弄し、足利尊氏を悩ませた楠木正成(右)
型破りな戦術で鎌倉幕府の軍勢を翻弄した正成の子孫が、旧来の戦術を大きく変えた火縄銃の名手だったとしたら、実にピッタリですね。
『国友鉄炮記』によると天文18年(1549年)に織田家へ臣従、信長に砲術を指南したと言われます。
「これはよい。さっそく500挺ばかり作らせよ。代金は弾むぞ!」
「ははあ」
こうして信長のトレードマークとも言える鉄砲隊を編成、織田家中で頭角を現していきました。
また子供にも恵まれ、橋本道一・橋本大膳(だいぜん。矢合城主)それぞれに活躍。一族で尾張西境の守備に当たります。
そんな橋本一巴は永禄元年(1558年)、信長に従って織田一族(従兄弟)の織田伊勢守信賢(いせのかみ のぶかた)と対決。後世に言う浮野の合戦に臨みました。
戦闘は次第に信長の優勢となり、7月12日の正午ごろ、一巴は退く敵の追撃中に弓の名手である林弥七郎(はやし やしちろう)を発見します。
「そこにおわすは、林殿とお見受けした。我こそは橋本伊賀守、尋常に勝負いたせ!」
弥七郎は足を止め、背を向けたまま答えました。
「よかろう。相手にとって不足はない……が、そなたほどの達人なれば、こちらも手加減はできぬぞ。