「鎌倉殿の13人」いよいよ源義経の最期まで突っ走るか?第20回放送「帰ってきた義経」予習 (4/6ページ)

Japaaan

「さて、これからどうするか……」

家督を継いだ泰衡ですが、彼は義経を擁立しても奥州を支えきれないと早々に見切りをつけ、義経を討って頼朝と和解する方針を示しました。

「父上のご遺言に叛き、奥州の誇りを棄てられるおつもりか!」

泰衡に反対したのは忠衡・通衡・頼衡の3名。国衡と高衡は泰衡寄りであったと見られます。

「黙れ!誇りだけで奥州が守れるものか。そもそも誇りと申すなら、よそ者である九郎殿を担ぐのは筋違いであろうが!」

兄弟が分裂・対立する中、文治5年(1189年)2月15日に六男の頼衡が泰衡によって討たれました。

「我が意に逆らう者は、この通りじゃ!」

その3か月後となる閏4月30日、泰衡は数百騎の軍勢を率いて義経の元へ向かいます。

義経の最期と弟たちの謀叛

文治五年閏四月卅日已未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戰。与州家人等雖相防。悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻〔廿二歳〕子〔女子四歳〕次自殺云々。
(以下、義経の略歴)

※『吾妻鏡』文治5年(1189年)閏4月30日条

「かかれっ!」

泰衡は、藤原民部少輔基成(ふじわらの みんぶしょうゆうもとなり)の館に滞在していた義経を襲撃。

かねて朝廷から義経追討を命じられており、あわせて頼朝からの圧力に耐えきれなくなったのでしょう。

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