我こそ次の鎌倉殿…源実朝の暗殺後、将軍位を狙って挙兵した源頼茂の野望【鎌倉殿の13人】 (4/5ページ)
※『愚管抄』第六巻
頼茂の息子である源頼氏(よりうじ。下野守)も捕らわれ、ほどなく処刑されたと言うことです。
終わりに承久元年七月大廿五日戊午。霽。酉尅。伊賀太郎左衛門尉光季使者自京都到着。申云。去十三日未刻。誅右馬權頭頼茂朝臣。虜子息下野守頼氏訖。折節若君御下向之間。故止飛脚。于今不啓子細云々。頼茂依背叡慮。遣官軍於彼在所昭陽舎〔頼茂守護大内間。住此所〕合戰。頼茂并伴類右近將監藤近仲。右兵衛尉源貯。前刑部丞平頼國等。入籠仁壽殿自殺。放火郭内殿舎以下。仁壽殿觀音像。應神天皇御輿。及大嘗會御即位藏人方往代御裝束靈物等。悉以爲灰燼。朔平門。神祗官。々外記廳。陰陽寮。園韓神等免其災云々。
※『吾妻鏡』承久元年(1219年)7月25日条
以上、実朝の死に乗じて将軍位を求めた源頼茂の謀叛を紹介してきました。
しかし『愚管抄』では将軍位を求めた謀叛としている一方、『吾妻鏡』だと「頼茂依背叡慮(頼茂が叡慮=後鳥羽上皇の意に背いたため)」としています。
これは鎌倉と京都のパイプを持つ頼茂が後鳥羽上皇らによる討幕計画を知り、内通していたため粛清されたものと見ていたのでしょう。