本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【後編】 (3/5ページ)

Japaaan

時は天正3年(1575年)、信長は土佐国(現:高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に対して「四国を手柄次第に切り取ることを認める」旨を伝えました。

四国地図

当時、讃岐国(現:香川県)と阿波国(現:徳島県)は三好(みよし)一族が占拠しており、これを本土と挟み撃ちにする意図があります。よくある遠交近攻(えんこうきんこう。遠くの国と連携して近くの国を攻める)の典型例ですね。

しかし三好康長(やすなが)が織田に寝返ると信長はこれを受け入れ、逆に勢力を伸ばす元親を警戒するようになりました。

天正9年(1581年)に入ると信長の支援を得た康長は四国で勢力を伸ばし、四国北東部を掌握。それで信長は元親に対して「領有は土佐と南阿波のみとし、それ以外の伊予国(現:愛媛県)などは返還するよう」命じます。

前には「切り取り放題」と言っていたくせに、いざ都合が悪くなって返せとは理不尽な話。しかも信長の支援によって得たならともかく、完全に実力で勝ち取った所領を手放す筋合いはありません。

もちろん元親は信長の命令を突っぱねます。織田・長宗我部の対立を懸念したのが、これまで対四国の交渉窓口となってきた光秀です。

何とか元親を説得しようと努めますが、まったく応じてくれません。そんな中、信長は天正10年(1582年)2月、四国の分割計画を示しました。

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