本能寺の変に「黒幕」はいたのか?たぶん明智光秀の単独犯行だった「四国政策転換説」を紹介【後編】 (4/5ページ)

Japaaan

織田信孝(丹部侍従平春高)。歌川国芳筆

讃岐国:織田信孝(のぶたか。信長の三男、信長の命令により康長に養子入り)
阿波国:三好康長
伊予国:未定
土佐国:未定

これは暗に長宗我部の所領(本拠地である土佐、新たに奪った伊予)を全没収することを意味しています。もう長宗我部との交渉役は必要ない……要するに光秀はお役御免となってしまいました。

四国征伐の大将になれず……

光秀は信長の信頼を取り戻すためには、何としてでも四国征伐の指揮官を拝命し、長宗我部を織田の軍門に下すよりありません。

が、天正10年(1582年)5月。信長は三男の信孝を四国征伐の総大将、丹羽長秀を副将としました。

信長は光秀と長宗我部の関係を懸念しており、総大将にすると手を抜くリスクが高いと判断したのでしょう。

四国征伐から外されてしまった光秀は、中国方面で戦っている羽柴秀吉の援軍として向かうことになります。

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