現世利益を求め願うことを仏教・神道・キリスト教はどう捉えているか (3/3ページ)
■凡人が求める神仏とは
私たちは凡人である。難しい観念的形而上的な神仏より具体的なご利益を請け負って下さる神仏に頼ってしまう。「古事記」の冒頭を飾る宇宙初発の神、天之御中主神や高皇産霊尊を祀る神社は、八幡神社や稲荷神社に比べ極端に少ない。中国の最高神は宇宙創造の神・元始天尊だったが、現代では現世利益を請け負う玉皇大帝にその座を奪われている。ヒンドゥー教の三大神は宇宙創造の神・ブラウマー、破壊神・シヴァ、安定を保つヴィシュヌだが、実質2大神と言ってもよい程に形而上的なブラウマーの影は薄い。大日如来や阿弥陀如来の知名度は高いものの願掛けといえば、悟りを開いた如来より人間に近く具体的なご利益を司る、〇〇不動、〇〇観音、〇〇地蔵などといった菩薩、天部の下に人々は集まる。例外的に病気治癒の薬師如来も仲間に入るだろう。病気という苦しみから救われるためには、如来は敷居が高いなどと言っていられないのだ。
■人間らしさ
現世利益には限界がある。祈祷で病気が完治したとしても寿命が数年延びるだけであるし、私たちの最後は結局「死」である。それでも、病気が治るというならそれにすがる人がほとんどだろう。人生の最期の時。執着を捨てイエスの言う「貧しき者」になって天国に行くか。最後まで「神様仏様、助けてください」と叫びながら死ぬか。後者を笑うことはできない。宗教の本義を忘れてはいけないが、神仏の本尊に欲の達成を願う愚かさこそが人間らしさというものではないだろうか。
■参考資料
■葉室頼昭「<神道>のこころ」春秋社(1997)
■新約聖書 新改訳 国際ギデオン協会