「関ヶ原の戦い」で翻弄された島津義弘!玉砕戦術 ”捨て奸”に至るまでの壮絶なドラマ【前編】 (2/4ページ)

Japaaan

島津義弘(Wikipediaより)

その勇猛果敢で鬼気迫る戦い方から、義弘は朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれ恐れられたといわれています。

義弘は秀吉と良好な関係を保っていましたが、長年九州を支配してきた島津家の中には秀吉に従うことに不満を持つ家臣が多く、中央政権の命令や要請に対して非協力的な態度をとる者も少なくありませんでした。

そして秀吉の死後、関ケ原の戦いが起こる直前の1599年に、島津家中で「庄内の乱」が勃発します。

義弘、東軍につくも…

庄内の乱は、義弘の三男である島津忠恒によって重臣・伊集院忠棟が殺され、その子である伊集院忠真が反乱を起こしたものです。

この内乱によって島津家中の兵力は疲弊し、内部分裂がさらに進むことになります。

これを治めたのが徳川家康でした。

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