菅原道真と平将門と崇徳院が日本三大怨霊と言われている理由 (2/2ページ)

心に残る家族葬

しかし平将門が祀られたのは延喜2年(1309)で、「平将門の乱」から370年も後のことである。そのころ流行った疫病が平将門の祟りと言われていたからのようである。

■日本三大怨霊の崇徳院

崇徳院は「保元の乱」で讃岐国に配流になった崇徳天皇のことである。讃岐では仏教に傾倒し、五部大乗経の写本をしていたという。その写本を京都の寺に納めてほしいと願い出たが、突き返された。怒りのあまり舌を噛み切り、写本に「大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」とその血で書いたといわれている。永治元年(1142)崩御。崩御後も朝廷はその死を無視した。

安元3年(1177)、火災や、鹿ケ谷の陰謀などが起こり、世の中が乱れ始め、「崇徳院の祟りではないか」という話になる。寿永3年(1184)、後白河院は崇徳院の怨霊を鎮めようと「保元の乱」の戦場だった場所に「崇徳院廟」(粟田宮)を建立する。その後明治天皇が崇徳院の御霊を京都へ帰し、白峯神宮を創建した。

■怨霊を祀る理由

怨霊は神として祀られる。怨霊を手厚く祀ることで、恩恵を受ける。邪険に扱うと災いが起こる。「怨霊」が「御霊」にもなるのである。

天災や疫病が起きるのは怨霊のためと考えられていたため、これを祀り鎮めることによって、守っていただこうというのが御霊信仰である。特に、奈良時代から平安時代にかけて、いろいろな政変が起き、非業の死を遂げる位の高い人が出て、天変地異が起こったり、疫病が流行ったりもしたため、それらをその位の高い人の怨念のせい、と考え「御霊」として祀るようになったのである。

「菅原道真と平将門と崇徳院が日本三大怨霊と言われている理由」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る