「鎌倉殿の13人」ついに頼家の死、朝雅の活躍、実朝の花嫁選び…第33回放送「修善寺」予習 (3/5ページ)
遠江左馬助。去五日於京都卒去之由。飛脚到着。是遠州當時寵物牧御方腹愛子也。爲御臺所御迎。去月上洛。去三日京着。自路次病惱。遂及大事。父母悲歎更無可比云々。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月13日条
【意訳】北条政範がさる11月5日に亡くなったことを知らせる飛脚が鎌倉に着いた。彼は時政とりくの間にできた愛息である。御台所をお迎えするため10月に上洛、11月3日に到着したが、道中すでに病身だった。とうとう亡くなってしまい、両親の悲歎は何物にも比べようがないほどだったという。
政範の亡骸は11月6日に京都東山・鳥辺野あたりに埋葬されました。政範の下男たちからその報告を受けた11月20日、同じ口で平賀朝雅と畠山重保の口論について聞いたので、よりいっそう畠山への怒りが燃えたのかも知れません。
故遠江左馬助僮僕等自京都歸着。去六日葬東山邊云々。又同四日。於武藏前司朝雅六角東洞院第。酒宴之間。亭主与畠山六郎有諍論之儀。然而會合之輩依宥之。無爲退散訖之由。今日風聞云々。
※『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月20日条
溺愛する政範の死に悲しんだ時政とりくが、次なる望みを賭けて朝雅の鎌倉殿擁立を企むのは、そう遠いことではありませんでした。
実朝の花嫁選びさて、政範が京都まで迎えに行った御台所候補・坊門信清の娘ですが、最初から彼女が選ばれた訳ではありません。
最初は元久元年(1204年)8月4日、宿老たちは実朝の正室に源氏の門葉・足利義兼(あしかが よしかね。上総前司)の娘をと考えていました。