え、当日いきなり!?それでも鎌倉殿の無茶ぶりに応えた御家人・三浦家村の腕前 (3/3ページ)

Japaaan

兼以令置流鏑馬舎近邊云々。此上家村失據于遁避。自取敷皮。副于下手埒。向流鏑馬舎。公私見此儀入興。見物之輩悉以属目於馬塲下之方。相待家村所爲。家村改布衣行粧。着射手裝束。鏑者泰村之鏑也。矢与鏃己之宇津保矢〔并〕加利俣也。然後駕于件深山路。打出于第四番打出之所。至三的之際。其躰不耻古堪能云々。人々美談。時之壯觀也。射訖則又裝布衣。皈着本座之間。頻預御感御使。當家他門莫不賀之云々。

※『吾妻鏡』寛元4年(1246年)8月16日条

以上、三浦家村が無茶ぶりにも関わらず見事な腕前を魅せつけたエピソードを紹介してきました。

みごと的中!その腕前を見せつけた家村(イメージ)

何だか(はっちゃけエピソードの多い)家村らしからぬ謙遜ですが、恐らく泰村と示し合わせた上で勿体をつけたものと思われます(もちろん弓馬は武士の嗜みであり、言われるまでもなく日ごろから稽古していた筈です)。

翌宝治元年(1247年)6月5日の「宝治合戦」で三浦一族は滅ぼされてしまいますが、家村は執権・北条時頼(ほうじょう ときより)の大軍を相手に、弓射の腕前を思うさま発揮したことでしょう。

そして三浦の家名を守るために鎌倉を脱出、その命脈を現代にまで受け継いだのでした。

※参考文献:

細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「え、当日いきなり!?それでも鎌倉殿の無茶ぶりに応えた御家人・三浦家村の腕前」のページです。デイリーニュースオンラインは、藤原頼嗣三浦氏三浦泰村三浦家村吾妻鏡カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る