「鎌倉殿の13人」葛藤する源実朝、深まる北条義時との対立…第39回放送「穏やかな一日」予習

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「鎌倉殿の13人」葛藤する源実朝、深まる北条義時との対立…第39回放送「穏やかな一日」予習

先週の箸休め的なトークSPを挟み、いよいよ物語はクライマックスへと突入するNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。

脚本・三谷幸喜が語っていた衝撃の結末(主人公・北条義時の死)に向けて、残る大規模イベント(歴史的事件)と言えば、和田合戦・源実朝の暗殺・承久の乱と言ったところ。

もちろんその間にも様々なエピソードがあり、どれが放送されるのか今から楽しみにしています。

さて、それでは第39回放送「穏やかな一日」を予習していきましょう。ここまで本作を観て来た皆さんなら、このサブタイトルを額面どおりに受け取る方はいないはず。

そう、『吾妻鏡』を見ると実に色々あるのでした。

源実朝、疱瘡(天然痘)を患う

晴。鶴岳宮御神樂如例。將軍家依御疱瘡無御出。前大膳大夫廣元朝臣爲御使神拝。又御臺所御參宮。

※『吾妻鏡』承元2年(1208年)2月3日条

【意訳】晴れ。鶴岡八幡宮で例年のお神楽が執り行われたが、将軍家(源実朝)は疱瘡を患っていたためお出ましはなかった。そこで大江広元が代参、御台所(坊門姫)も参拝された。

疱瘡(ほうそう)とは天然痘のことで、高い致死率(約20~50%)と強い感染力で恐れられた伝染病です(現在は根絶に成功)。果たして実朝の安否が心配されました。

疱瘡を患うと、その平癒を願って疱瘡神を祀った。『疱瘡心得草』より

將軍家御疱瘡。頗令惱心神御。依之近國御家人等群參。

※『吾妻鏡』承元2年(1208年)2月10日条

【意訳】実朝の疱瘡は重く、その心身を衰弱させた。心配した御家人たちが見舞いに集まっている。

発病してから1週間以上にわたって苦しみ続けた実朝。これはもう、助からないかも知れない……かつて源頼家の病気がそうであったように、鎌倉殿に何かあれば、再び始まる後継者争いを予感していたのかも知れません。

それから更に2週間以上が経った2月29日、ようやく実朝は持ち直したのか、身体を洗うことが出来ました。

雨降。將軍家御平癒之間。有御沐浴。

※『吾妻鏡』承元2年(1208年)2月29日条

【意訳】雨。実朝の具合がよくなったので、沐浴をなされた。

あぁ命を取り留めてよかったよかった……とは言え無理は禁物ですから、しばらく公務はお休みです。

快晴。鶴岳宮一切經會。將軍家依疱瘡御餘氣無御出。武州爲奉幣御使。御臺所并尼御臺所御參宮〔各御車〕。

※『吾妻鏡』承元2年(1208年)3月3日条

【意訳】今日は快晴。鶴岡八幡宮で一切経会(いっさいきょうえ)が行われたが、実朝は病み上がりのため欠席。代参は北条時房、御台所と尼御台がそれぞれ牛車で参拝された。

御台所と尼御台は、きっと神仏に篤くお礼を申し上げたことでしょう。

天然痘による痘痕の一例。『痘瘡面上図』より

こうして回復した実朝ですが、多くの天然痘患者がそうであったように、実朝の顔には痘痕(あばた)が出来てしまいます。

当時17歳の実朝にとっては、非常に辛かったであろうことは想像に難くありません。その後しばらく、実朝は自らの顔を恥じて鶴岡八幡宮への参拝を取りやめたのでした。

容姿にコンプレックスを持ってしまった実朝と、それを優しく受け入れる千世(坊門姫)との関係がどのように描かれるのか注目です。

義時、自分の取り巻きに準御家人待遇を要求

相州年來郎從〔皆伊豆國住民也。号之主達〕之中。以有功之者。可准侍之旨。可被仰下之由。被望申之。内々有其沙汰。無御許容。於被聽其事者。如然之輩。及子孫之時。定忘以往由緒。誤企幕府參昇歟。可招後難之因縁也。永不可有御免之趣。嚴密被仰出云々。

※『吾妻鏡』承元3年(1209年)11月14日条

さて、これまで次々と政敵を滅ぼし、ついには父・北条時政をも追放。兄との約束(第5回放送)を果たして「坂東武者のてっぺん」に立った北条義時は、実朝にこんなことを願い出ます。

「我が下で永年仕えて功績のある郎従らに、侍(さむらい。御家人)に準ずる待遇を与えて欲しい」

彼らは義時の地元・伊豆国から連れてきた者たちで、主達(おもだち)と呼ばれていました。北条の取り巻きとして既に特別扱いされてきた彼らの立場に、鎌倉殿のお墨付きをつけようと言うのです。しかし、これを実朝は却下。

義時の専横を少しでも防ごうと努めた実朝(イメージ)『國文学名家肖像集』より

「それを許せば身分(御家人と非御家人)のけじめが曖昧になり、やがては幕政に紛れ込んでくることになるだろう。つまらぬトラブルの元になるから、今後も認めない」

【読み下し】そのこと聽(ききい)らるにおいては、しかる如き輩(ともがら)の子孫の時に及び、定めて往(時)の由緒忘るをもって幕府参昇を誤り企てんか。これ後難を招くべき因縁なり。永く御免あるべからざるの趣、厳密に仰せ出ださると云々。

向かうところ敵なしの義時に対して、実朝らしからぬ激しい拒絶。その言葉を口にしてみると、実朝の強い意志を感じられます。

これはきっと、同年5月に和田義盛の願い出た上総国司の推挙を阻んでいる義時への意趣返しでしょう。

和田義盛が源実朝におねだりしたものとは?『吾妻鏡』を読んでみると…【鎌倉殿の13人】

「政治に公平を期すべきだの何だのと言って、和田の推挙を阻んでおるくせに、自分の取り巻きどもは取り立てろと言うのは筋が通らぬ!」

しかし毅然な態度をとってはみたものの、やはり北条氏の権勢にはやがて妥協を強いられていく鎌倉殿。やがて実朝の懸念どおり、北条得宗家の取り巻きが幕政にのさばっていくようになるのでした。

ただし、何とか義盛の願いを叶えてやりたい実朝は「義時がワガママを言い出したのなら……」とばかり、11月27日に義盛をコッソリ呼び出します。

和田左衛門尉義盛上総國司所望事。内々有御計事。暫可奉待左右之由蒙仰。殊抃悦云々。

※『吾妻鏡』承元3年(1209年)11月27日条

「和田よ、上総国司の件はしばし待て。内々に計らっておるゆえ……」

義時の要求を通すなら義盛の願いも通すし、もし義盛の願い通らずば……ということで、義時に対抗するための布石を打つのでした。

守護の交代制に断固反対!

義時に対して不満を募らせる和田一族(イメージ)歌川芳員筆

さて、和田義盛を国司(守護)に推挙できない実朝の不満は、現職守護たちの仕事ぶりも一因だったと思われます。

諸國守護人緩怠之間。群盜動令蜂起。爲庄保煩之由。國衙之訴出來。依之條々被凝群儀。於爲一身定役者。還誇故實。可有懈緩之儀。結番人數各相替。差年限。可令奉行歟。不然者。被尋聞食國々子細。可被改不忠輩歟之由。雖有其沙汰。未被一决。以此次。彼職補任本御下文等。可進覽之旨。先被仰近國。是自然恩澤与勳功賞。事可有差別之故也。義盛。仲業。淸定等奉行之。

※『吾妻鏡』承元3年(1209年)11月20日条

「諸国の守護が怠慢なせいで、各地で群盗が蜂起して年貢が奪われているとの訴えが出ておる。これは(祖先の功績にあぐらをかいている)守護の世襲制が問題なのではないかと思う。そこで守護を任期制とし、仕事ぶりを評価するようにすれば、少しは改められるのではないだろうか」

従来の利権としがらみを断ち切って政治改革を志す実朝。あるいは義時が(北条に楯突く、少なくとも対等であろうとする)御家人たちの力を削ごうと画策したのかも知れません。

しかし現実は快刀乱麻ともいかず、小山朝政・千葉成胤(ちば なりたね。常胤の孫)・三浦義村ら有力豪族の反対により実現には至りませんでした。

「「「絶対に反対です!」」」

「いや、交代でまた他国の守護になれる(かも知れない)から……」

そんなの信用できません。一度守護職を返上してしまったら、後は国を追われるばかり。仮に他国の守護へ転任したところで、その土地の領民が新任守護に協力的という保証は何もないのです。

古来「一所懸命」と言うとおり、自分の勝ち取った一ヶ所は、あちこちに与えられた十ヶ所にまさる(それこそ、命を懸けるに足る)価値を持っています。

先祖代々受け継いだ土地こそ、力の源。これを手放したら生殺与奪の権を委ねたも同じこと。自分の運命を(たとえ鎌倉殿であろうと)他人に託すなんて、坂東武者の矜持が許しません。もう生理的に無理です。

実朝の理想を実現したのが、江戸時代の幕藩体制。武士を土地から引きはがすのは、それだけ大変なことなのでした。

終わりに

執権となったのは私欲のためではないと言っていた義時だが……(イメージ)

とまぁ義時と実朝、そして義時と和田義盛の対立が深まっていく第39回。そんな中にあって、恐らく奇跡的に「穏やかな一日」が描かれるものと思われます。

満面の笑みを湛えて蹴鞠を勧める北条時房。本当に一日(この場合は1回分放送)でいいから、穏やかな場面がそろそろ欲しい……視聴者の切なる願いは、果たしてどんな形で踏みにじられるのでしょうか(もう裏切られる前提)。

次週放送も、乞うご期待です!

※参考文献:

三谷幸喜『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 完結編』NHK出版・2022年10月 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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