「鎌倉殿の13人」泉親衡とは何者か?北条義時・和田義盛の開戦前夜…第40回放送「罠と罠」予習【上】 (6/7ページ)
と、ちょうど参籠(さんろう。祈祷のためお籠り参拝)明けの工藤藤三祐高(くどう とうざすけたか)がこの和歌を見つけて実朝に献上。
晴。工藤々三祐高。去夜參籠荏柄社。今朝退出之刻。取昨日兼守所奉之十首哥。持參御所。將軍家依賞翫此道給。御感之餘。則被宥其過矣。兼守愁虚名奉篇什。已預天神之利生。亦蒙將軍之恩化。凡感鬼神。只在和哥者歟。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)2月26日条
「こんな美しい歌を詠める者が、謀叛など企んだり加担したりなどするはずがない。ただちに処刑を中止し、罪を赦免せよ!」
……とのこと。こうして兼守は命拾いしました。「およそ鬼神を感じせしむは、ただ和歌にてありや(凡感鬼神。只在和哥者歟)」とはよく言ったものです。
しかし薗田・渋河両名の事例を見ると、実朝も結構豪快と言うか軽卒な面があったようで、ちょっと心配になってしまいますね。
霽。謀叛之輩。多以被遣配所云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)2月27日条
そんなこんながありながら、謀叛の発覚から12日が過ぎた2月27日、判決の出た者たちからそれぞれ配流先へと送られていったのでした。
張本人・泉親衡は鎌倉を脱出、行方不明に天晴。今度叛逆張本泉小次郎親平。隱居于違橋之由。依有其聞。遣工藤十郎被召處。親平無左右企合戰。殺戮工藤并郎從數輩。則逐電之間。爲遮彼前途。鎌倉中騒動。然而遂以不知其行方云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)3月2日条
ところで、これほどの大騒動を惹き起こしておきながら、張本人の泉親衡はどこへ行ったのでしょうか。
月が替わって3月2日、どうやら親衡が筋替橋(違橋)の辺りに潜伏しているとの情報が入ってきました。鶴岡八幡宮から徒歩3分、鎌倉御所から徒歩5分ほど、めちゃくちゃ燈台下暗しですね。
さっそく現場へ工藤十郎(くどう じゅうろう)らが派遣されたものの、敵もさるもの。