日本で初めて“鉄砲”を使った!?島津四兄弟の父・貴久の「生涯」 (3/3ページ)
■新兵器鉄砲をいち早く実戦で使用した武将!
その後、貴久は本格的に島津に靡な びかない薩摩国内の国衆らを屈服させ、次いで大隅の国衆も従わせた。
島津氏が薩摩、大隅、日向の守護職を兼ねていても、各国の国衆らを家臣にしていたわけではない。
この三国の平定は長男義久によって達成されるが、貴久の時代にその基礎が築かれていたのである。
それでは最後に、貴久が当時の最新兵器である鉄砲を初めて合戦に使った武将かどうかを検証してみよう。
鉄砲は天文一二年(1543)、種子島に漂着したポルトガル商人から、島の領主種子島時堯が二挺を買い付け、鍛冶職人に命じて複製させたというのが通説。伝来の年をその前年とする説や、種子島に伝来する前に中国人商人によって五島列島(長崎県)へ伝わっていたとする説もあり、こちらも通説が見直されつつある。
とはいえ、伝来の年は数年ずれるだけと考えられる。
鉄砲の製法はただちに堺などに伝わり、伝来後、国産の鉄砲が急速に広まっているから、地理的に種子島に近い薩摩や大隅で鉄砲が我が国で初めて実戦使用されるのは当然といえよう。
薩摩藩に伝わる記録類などから鉄砲の使用例をみてみると、最も早い例が、鉄砲が伝来したとされる年の六年後の天文一八年(一五八九)。
貴久と島津に従わない国衆との合戦で使用された。場所は薩摩と大隅の国境に近い黒川崎(鹿児島県姶良市)。日本史上、記録に登場する最も早い使用例として注目されるが、鉄砲を放ったのは島津の敵方だ。
記録上、島津方が鉄砲を使用したのは天文二三年(1554)。こちらも場所は薩摩と大隅の国境近い岩剣城(前同)付近。黒川崎の合戦での鉄砲はあくまで威嚇の手段だったが、このときには攻撃の手段として鉄砲を用いている。貴久が初めて合戦に使ったとはいえないものの、いち早く新兵器を取り入れ、実戦使用した武将であるのは確かだろう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。