日本で初めて“鉄砲”を使った!?島津四兄弟の父・貴久の「生涯」 (2/3ページ)

日刊大衆

 しかし、勝久は彼の横暴を嫌い、その姉に当たる妻を離別。こうして宗家の勝久と薩州家の実久の対立は決定的となった。

 そこで大永六年(1526)、勝久は、薩州家に対抗できる伊作家の忠良に国政を託し、その嫡男貴久に守護職を譲ったとするのが通説だ。

 貴久は宗家の居城清水城(鹿児島市)に入ったが、以上の経緯に反発した薩州家の実久が謀叛を起こし、貴久は父忠良とともに田布施に逃れざるをえなかったという。この実久との抗争は天文八年(1539)まで続き、貴久の勝利に終わる。

 以上の通説は主に『島津国史』による。この史料は江戸時代の終わり頃、八代薩摩藩主島津重豪の命で造士館(薩摩藩の藩校)の教授が編纂したもの。貴久は歴代薩摩藩主の祖として位置づけられる人物だけに、その行動を正当化するのはある意味、当然のことだ。

 ところが、勝久が伊作家の忠良に国政を託したとする年に彼が忠良に宛てた書状では、庄内(宮崎県都城市)の「指南」、すなわち庄内地方の政治について指導を要請しているにすぎない。とても国政を委ねたといえないのだ。

 今では忠良が嫡男の貴久を跡継ぎのいない勝久の養子とし、宗家を乗っ取るためのクーデターだったと理解されている。やっていることは薩州家の実久となんら変わらない。

 当然、クーデターは実久の反発と挙兵を招いた。宗家の勝久も貴久に守護を譲ったことを悔い、いったん反故にしている。忠良と貴久父子のクーデターは失敗に終わったのだ。

 しかし、そこから父子が反撃に転じ、前述した通り、天文八年に薩州家との軍事抗争に勝利。薩摩半島から、その勢力を駆逐した。

 そして、天文一四年(1545)、一族や重臣に推され、貴久が勝久の跡を継ぐことが決まった。

 こうして父忠良の念願がかない、宗家を乗っ取った貴久は天文一九年(一五五〇)、その頃、居城にしていた伊集院の宇治城(日置市)から鹿児島で新たに築いた御内城に入った。

 ちなみに、慶長七年(1602)に鶴丸城が築かれて歴代藩主がそこに住むまで、この御内城が島津宗家の居城となった。

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