長沼宗政に殺された畠山重忠の遺児、重慶。実は影武者だった説『系図纂要』より【鎌倉殿の13人】 (4/4ページ)
文永と言えば元寇(文永の役)の直前、鎌倉殿は第7代・惟康親王(これやすしんのう)、執権も第7代・北条政村(まさむら)になっていました。
※政村は、義時と伊賀の方(のえ。演:菊池凛子)の間に出来た子で、奇しくも重忠が討たれた元久2年(1205年)6月22日に生まれています。
終わりにかくして生き永らえた證性は證光(しょうこう)という子を授かり、やがて下野国塩谷荘に蓮生寺(れんしょうじ)を開いたとのこと。
※江戸時代の寛永4年(1627年)に福島県東白川郡棚倉町へ移転。なお證性自身を開基とする説や、證性が重慶ではなく異母兄の畠山重秀(しげひで。小二郎)とされる説もあります。
今も惜しまれる畠山重忠の最期。月岡芳年「芳年武者无類 畠山庄司重忠」
證光の代で子孫は途絶えているものの、『系図纂要』には重秀の家系が後世に存続。重忠の子孫が今もどこかに生きている(かも知れない)と思うと、胸が熱くなりますね!
※参考文献:
飯田忠彦『系図纂要』国立公文書館デジタルアーカイブ 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月 親鸞聖人関東ご旧跡ガイド編集委員会『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』本願寺出版社、2011年8月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan