長沼宗政に殺された畠山重忠の遺児、重慶。実は影武者だった説『系図纂要』より【鎌倉殿の13人】 (3/4ページ)
これが宗政をして鎌倉一の暴言王たらしめるキッカケとなり、実朝から謹慎を命じられてしまったのでした(翌、閏9月に赦されます)。
『系図纂要』によるとかくして(少なくとも実朝には)惜しまれながら世を去った畠山重慶。しかし幕末の系図集『系図纂要』には、こんな記述がありました。
證性
僧 本名重慶 大夫阿闍梨
文永二年四ノ廿五入 七十七※『系図纂要 四十九 平氏 四』より
【意訳】證性(しょうせい)は僧侶で、その本名は重慶と言う。大夫阿闍梨(たいふ あじゃり)の位であった。
文永2年(1265年)4月25日に入滅(にゅうめつ。高僧が亡くなること)された。享年77歳。
……證性の本名は重慶。ある時点から本名を隠して證性となったことを意味しています。
「拙僧が畠山様のご子息?とんでもない……」世を忍んだ重慶あらため證性(イメージ)
単なる改名であれば、どちらも本名には違いないので、この記述は元の名前(重慶)を隠したと考えるのが自然です。
この記述が事実であれば、建暦3年(1213年)9月に殺されたのは畠山重慶本人ではなく影武者。世を忍ぶため名を證性と改め、その後半世紀以上にわたる長寿を保ったことになります。