長沼宗政に殺された畠山重忠の遺児、重慶。実は影武者だった説『系図纂要』より【鎌倉殿の13人】 (1/4ページ)

Japaaan

長沼宗政に殺された畠山重忠の遺児、重慶。実は影武者だった説『系図纂要』より【鎌倉殿の13人】

元久2年(1205年)6月22日、無実の罪によって非業の死を遂げた畠山重忠(演:中川大志)。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では嫡男・畠山重保(演:杉田雷麟)も同じく粛清されていましたが、重忠の息子は他にもいました。

畠山六郎重保。父の薫陶を受け、将来を嘱望されていた(はず)。歌川芳虎「鎌倉星月夜」より

その末子が畠山重慶(ちょうけい)。出家の身であったため、重忠の「謀叛」に連座することはなかったものの、後に非業の死を遂げたとされます。

今回はそんな畠山重慶にまつわる異説を紹介。彼の運命はどのように変わったのでしょうか。

『吾妻鏡』が伝える畠山重慶の最期

まずは鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が伝える畠山重慶事件のあらましから。

時は建暦3年(1213年。建保元年)9月19日、畠山重慶が下野国(現:栃木県)で謀叛を企んでいると通報が入りました。

「長沼宗政に殺された畠山重忠の遺児、重慶。実は影武者だった説『系図纂要』より【鎌倉殿の13人】」のページです。デイリーニュースオンラインは、系図纂要長沼宗政畠山重慶畠山重秀畠山重保カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る