裏切り者の末路…鎌倉幕府の滅亡後、北条高時の遺児を売り飛ばした五大院宗繁【太平記】 (3/4ページ)

Japaaan

本当なら張輿(はりごし。周囲をむしろ等で張った簡素な輿)にでも乗せるところですが、なにぶん急なことで用意もなく、邦時は馬の鞍に縛りつけられたと言います。

「あの子が北条の御曹司か。おいたわしや……」

あまりにもむごい仕打ちに、鎌倉の人々は涙で袖を絞らぬ者はなかったとか。また幼いからせめて命だけはと願う声もありましたが、逆賊の息子であれば捨て置けず、5月29日に斬首されてしまいました。

父・高時の死からわずか7日後のこと。人々が悲しむ中、宗繁だけは恩賞の心配をしていたようです。

「あの、それがしの恩賞は……」

しかし船田入道から事の次第を聞いた新田義貞(にった よしさだ)は「永年にわたる恩義を忘れ、恩賞に目が眩んで主君の遺児を売り飛ばすとは不忠も甚だしい!」として、宗繁の処刑を決定しました。

宗繁を討ち取るよう命じる新田義貞(イメージ)香朝樓「新田義貞 市川團十郎」

「何だと、せっかく味方してやったのに!」

地獄耳で情報を聞きつけた宗繁はすぐさま鎌倉を脱出。そのまま逃げのびようとしましたが、行く先々で邦時を裏切ったことを非難され、追い出されてしまいます。

「裏切り者の末路…鎌倉幕府の滅亡後、北条高時の遺児を売り飛ばした五大院宗繁【太平記】」のページです。デイリーニュースオンラインは、船田義昌常葉前北条邦時五大院宗繁北条高時カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る