「討つべきは上杉か石田か――!?」軍議「小山評定は史実か」最終結論 (2/4ページ)

日刊大衆

 また、『実紀』と同じ江戸時代の編纂物である『黒田家譜』によると、このとき「まず上方(三成)をご征伐なさるべき」と発言したのは黒田長政(のちの初代福岡藩主)だったという。

 しかし、歴史学者の白し ら峰旬氏が二〇一二年に、家康を神話化するために江戸時代に捏造された架空の話だとして、

「小山評定はなかった」という新説を発表したことを皮切りに、その後、「なかった」派と「あった」派の間で、この一〇年、大論争が続いている。

 小山評定は「なかった」のか、それとも「あった」のか――。

 小山評定は『実紀』や『黒田家譜』などの編纂物、『関原軍記大成』などの軍記物に記載されているものの、武将たちの手紙などの一次史料によって確実に小山で評定があったことが確認できないために論争となった。

 争点は多岐に及んでいるが、まず問題をややこしくしているのが七月一九日付で家康が福島正則に宛てた手紙だ。

 家康が「御出陣御苦労」といっていることから、正則が当時の居城清洲城(愛知県清須市)を出陣し、会津へ進軍している苦労をねぎらっていることが分かる。

 そして、重要なのは〈人数(軍勢)之儀者被上〉というくだりだ。意訳すると「軍勢を上洛されたし」という文意になる。その理由は「上方雑説」。

 つまり、上方で挙兵の雑説があり、会津へ進軍しているところ申し訳ないが、西へ軍勢を転じてもらえないかと、家康が言っているわけだ。

 さらに、手紙には「(正則)ご自身はここまでお越し下さい」とある。

「ここ」がどこなのかが問題となるものの、家康が江戸を発つのは二一日だから、一九日時点での「ここ」は江戸ということになろう。

 だとすると、正則がどこで手紙を受け取ったかはさておき、一九日に家康から依頼されて軍勢を西上(上洛)させ、自身は今後の方針を家康と相談するため江戸へ向かったと解釈できるのだ。

 したがって彼が二五日に小山にいるはずがなく、主役を欠いた評定そのものの存在が危うくなるのだ。

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