「討つべきは上杉か石田か――!?」軍議「小山評定は史実か」最終結論 (3/4ページ)

日刊大衆

 もちろん、正則が家康とともに二一日に江戸を発ち、小山へ向かった可能性はあるものの、正則が自分の軍勢をほったらかしにするとは考えにくい。

 よって江戸から西上する軍勢の後を追ったと見るのが自然。やはり、正則は小山にいなかったことになる。

 ところが、この手紙の原本は写ししか残っておらず、その写しが計三通あって、これまで述べてきたのはその一通。

 問題は、もう一通の日付が七月二四日で、内容も〈人数(軍勢)之儀者被止〉とあること。最後の一文字がさきほどの手紙の写しと「上」から「止」へと変わっている。日付とともに、どちらかが写し間違えなのだろう。

 この日付(一九日と二四日か)と「上」、あるいは「止」の違いを合わせて考えると、手紙の文意はまるで異なってしまうのだ。

 通説では家康は二四日に小山に着陣しているため、二四日付なら「ご自身はここまでお越し下さい」という際の「ここ」は小山となり、さらに「軍勢の進軍を止められよ」と、家康が正則に依頼したと解釈できる。

 つまり、家康より先に会津方面へ向かっていた正則の進軍をいったん止めさせ、上方での挙兵の「雑説」が聞こえてきたため、家康が彼を小山へ呼び戻したといえる。

 そうだとしたら、通説通り、正則は小山評定で主役の役目を十分に果たすことができるのである。

■評定の有無を解く鍵は家康から長政への手紙

 続いて注目すべきは、七月二九日付で家康が長政に宛てた手紙だ。

 長政も前述した通り、評定の主役の一人だ。手紙の日付は小山評定の四日後。長政はすでに西へ向かって進軍中だったが、その彼へ、家康は次のような内容の手紙を送った。

「大坂奉行衆が別心(挙兵)したという知らせを受けました。重ねて相談したいと思うのですが、(長政が)上洛中なのでそういうわけにもいかず、委細は羽三左(池田輝政)へ申し渡しておいたのでよく相談してください」

 家康は三成の挙兵に、大坂の他の奉行衆( 長束正家、増田長盛、前田玄以の三奉行)まで加わった事実を知り、その対策について長政と相談したい旨を告げている。

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