加害者が過ちを認める 被害者が加害者を赦す 罪人への鎮魂と慰霊 (3/4ページ)
焼き打ちから450年となるこの日、信長の子孫と明智光秀の子孫も招かれ犠牲者の冥福を祈った。延暦寺では1992年、境内に「鎮魂塚」を設けて、毎年犠牲者とともに、信長本人や戦没者の霊を殉難者として供養している。かつては「仏敵」と名指しした信長だが、今では敵味方を分けない仏教の「怨親(おんしん)平等」の精神の中で鎮められている(4)。
■加害者が過ちを認める
忠治と比叡山は被害者からの視点だが、加害者からの視点では、ローマ・カトリック教会のガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)に対する謝罪がある。バチカン教皇庁で行われた国際会議において、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ガリレオに対する宗教裁判が誤りだったことを公式に認め、謝罪の言葉を述べた。そして1992年バチカンは宗教裁判の調査委員会を設立、ガリレオを異端とする判決が取り消された。さらに2009年、ガリレオの科学的業績を称えるミサも行なわれた(5)。
加害者側が罪を認め謝罪すること。被害者の子孫が罪を赦すこと。当事者の関係者同士が和解すること。これらは被害者のみならず、加害者である罪人の魂への鎮魂、慰霊行為に他ならない。
■前に進む一歩
犯罪、違法だから悪かというとそう単純ではない。ロシアで大統領を批判したり反戦を唱えることは国内では犯罪である。しかし地下で反戦活動を行う人たちを犯罪者だからといって悪であるといえるだろうか。何が罪なのかはその時代や世相、文化、国家によって異なる。自分が生きている時代や文化を物差しにして頭ごなしに否定することはできない。本人の声を聴くことのできない、罪を犯した死者との関係は難しいが、避けては通れない問題である。
無念の思いを抱いて散った死者に思いを馳せれば、すべてを水に流すというわけにはいかないが、「赦す」こと、「赦しを乞う」ことで、前に進む一歩になることは間違いない。罪人への鎮魂と慰霊は、生きている自分自身の心の浄化でもある。