慈円は本当に「中世きっての名僧」なのか?その生涯から名場面をピックアップ【鎌倉殿の13人】

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慈円は本当に「中世きっての名僧」なのか?その生涯から名場面をピックアップ【鎌倉殿の13人】

後鳥羽上皇に仕える中世きっての名僧。のちに『愚管抄』を著す。

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

世に名僧は多いものの、慈円(演:山寺宏一)が「中世きって」の名僧とは随分大きく出ましたね。

だって考えてもみて下さい。中世の定義は諸説あるものの、一般には平安時代(平安京遷都~)から戦国時代(~徳川家康による江戸開府)までですから、実に800年以上。

その約800年の歴史において「きっての」つまり「ぶっちぎりで一番の」名僧だと言うのです。凄すぎませんか?

慈円。『國文学名家肖像集』より

初めて人物紹介を見た時から、正直「そこまでか?」と思っていました。しかし、もしかしたら筆者が知らないだけで何か「中世きっての名僧」と呼ぶにふさわしいエピソードがあるのかも知れません。

そう、人間謙虚さが大事……という訳で調べてみました。山寺宏一が演じる慈円の名僧らしいエピソードを。

ハイスペックなエリートだけど、皮肉屋な一面も

まずは慈円の簡単なプロフィールから。久寿2年(1155年)4月15日から嘉禄元年(1225年)9月25日にかけて生き、父親は関白を務めた藤原忠通(ふじわらの ただみち)。九条兼実(演:ココリコ田中直樹)は実の兄に当たります。

鎌倉殿の13人」に当てはめると第1回放送(安元元・1175年)時点で21歳、主人公の北条義時(演:小栗旬)が亡くなる最終回(元仁元・1224年)時点で70歳。義時の8歳年長になります。

四度にわたって天台座主(てんだいざす。比叡山延暦寺の住職で、天台宗のトップ)を務め、歴史書『愚管抄(ぐかんしょう。愚見をまとめた書の意)』の筆者としても有名です。

また和歌にもすぐれ、その作品は家集『拾玉集(しゅぎょくしゅう)』や勅撰集『千載和歌集』はじめ、小倉百人一首にも前大僧正慈円(さきのだいそうじょう じえん)という名前で収録されています。

慈円の兄・九条兼実。その皮肉ぶりは日記『玉葉』に詳しい。藤原豪信筆

基本的にハイスペックなエリートですが、兄に負けず劣らぬ皮肉屋でもあり、筆鋒鋭い批判が随所に著されました。

ちなみにひねくれた同士ゆえか、上洛してきた源頼朝(演:大泉洋)とは意気投合。そういう場面も観たかったですね。

さて、ざっと人物像をつかんだ?ところで、慈円の名僧らしいエピソードを以下にまとめてみました。

身分にこだわらず才ある者を愛する度量

……慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までも召めし置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃の入道を扶持し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり……

※『徒然草』第二百二十六段

【意訳】慈円(慈鎮和尚)は一芸にひいでた者は身分が低くても分け隔てなく可愛がったので、この信濃入道(信濃前司行長)を召し抱えたという。

この行長、以前に学問で失敗したことを恥じて出家遁世していたところ、才能を惜しんだ慈円に取り立てられました。

琵琶法師によって『平家物語』が広められた(イメージ)『職人歌合画本』より

やがて行長は『平家物語』を作って盲目の琵琶法師に語らせたと言います(諸説あり)。身分や過去にとらわれない慈円の慧眼が、功を奏したのかも知れませんね。

「武士の世」の幕開けを記す

平安末期から公家たちの威勢が衰え、武士たちが台頭。やがて頼朝の鎌倉開府によって「武士の世」が開かれた……と言うのが一般的な見解。

しかし慈円はそれに先立つ幕開けを『愚管抄』に記していました。

……保元々年七月二日鳥羽院ウセサセ給ヒテ後。日本國ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後。ムサノ世ニナリニケル也ケリ。コノ次第ノコトハリヲコレハセンニ思テ書置侍ルナリ……

※『愚管抄』第四巻より

【意訳】保元元年(1156年)7月2日に鳥羽院が崩御され、日本国中に反乱が起こった。以来、武者(むさ)の世になった。このことは特筆すべきと思い書き残しておく。

いわゆる保元の乱。後白河天皇(演:西田敏行。当時在位中)と崇徳上皇(すとくじょうこう)の権力争いに武士たちが投入されたことにより、その存在感と影響力が高まりました。

まさに「武者の世」来たりけり。『平治物語絵巻』より

続く平治の乱(平治元~永暦元・1160年)も続けて制した平清盛(演:松平健)が権勢を極め、すっかり天下は「武者の世」に。

「この次第の理(ことわり)を、これは詮(せん。ここでは歴史的なしるし・記念)に思いて書置きはべるなり」

慈円の読みは、見事に的中したと言えるでしょう。

批判はすれど、弾圧はせず

ただ念仏を唱えるだけで救済される。貧しい民にとって、苦しい現世を生き抜く知恵として広まった専修念仏(称名念仏)。

しかし当時としては異端であり、延暦寺や興福寺は念仏僧を激しく指弾しています。そして承元元年(1207年)2月27日には後鳥羽上皇(名義は土御門天皇)が念仏停止(ちょうじ。禁止)を命じました。

もちろん慈円も厳しく批判している一方、力づくの弾圧には否定的で、土佐国(現:高知県)へ流罪にされるはずだった法然(ほうねん)上人を兼実と庇護し、配流先も少し手前の讃岐国(現:香川県)に緩和されます。

法然の弟子・親鸞。常福寺蔵 親鸞聖人肖像

恐らく慈円は、強引に弾圧すればするほど宗徒は信仰心を強めて反抗的になり、押さえつけられなくなってしまう宗教の本質・恐ろしさを知っていたのでしょう。

“I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it”

「私はあなたの意見には反対だ。しかしあなたが意見を主張する権利は命をかけて守る」

※S・G・タレンタイア『ヴォルテールの友人』

いかなる権威・権力をもってしても信仰は強制できないし、すべきではない。そんな宗教者としての矜持あふれる一幕です。

なお、慈円は法然の弟子である親鸞(しんらん)に得度を授けており、浅からぬ因縁が感じられます。

四条天皇を祟り殺す?

ここまで、慈円の人格者らしいエピソードを紹介してきましたが、今度は怖い話しも。

慈円が世を去って数十年後の仁治3年(1242年)1月9日、四条天皇(しじょうてんのう。第87代)がにわかに崩御されました。

原因はいたずら好きな陛下が、舎人や女房たちを転ばせようと御所の廊下に滑石をばらまいたところ、自ら転んで頭を打ったのが死因と考えられます。

当時12歳、あまりにも残念な崩御に人々は「これは亡き慈円僧正の祟りだ」と噂したのでした。

四条天皇御影。藤原為信筆

仁治三年正月二十四日。……去九日四條院俄崩御境節聊故慈鎮和尚成祟御之由……

※『門葉記』巻第三(熾盛光法三)より

【意訳】さる1月9日、四条院がにわかに崩御された。これは慈鎮(慈円)和尚が祟りをなしたゆえとのこと。

なぜ慈円が幼い四条天皇に恨みを……と思ってしまいます。これはかつて承久の乱(承久3・1221年)に敗れた際、在位していた仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう。第85代)が廃されたことが原因です。

「幼き当今(とうぎん。現在の天皇陛下。当時4歳)に罪はございませぬ、どうかご再考を!」

仲恭天皇の母・九条立子(りっし/たつこ)は兼実の孫であり、九条家の血統を受け継ぐ幼帝を守りたかったのですが、懇願も空しく即位からわずか78日(5月13日~7月29日。歴代最短)で退位させられてしまいました。

代わりに即位したのは別系統の後堀河天皇(ごほりかわてんのう。第86代)。髙倉天皇(たかくらてんのう。第80代)の皇孫に当たります。

「おのれ……この怨み、晴らさでおくべきか!」

慈円の怨みは自身の死後、次代の四条天皇に祟ったという……噂。あくまでも噂ですが、当時の人々は「慈円ならそのくらい怨むだろうし、祟り殺すくらいの法力は持っていただろう」と思っていたのでしょう。

終わりに

おほけなく うきよのたみに おほふかな
わがたつそまに すみぞめのそで

※「小倉百人一首」第95番 前大僧正慈円

【意訳】おこがましくも、世の人々を抱きしめて≒救ってあげたい。比叡山(の頂上)に立つ私の、墨染の袖で。

天台座主として、苦しむ衆生を救おうとする壮大な心意気が詠まれた慈円の歌。あふれる慈愛と才覚が満ち満ちていますね。

「小倉百人一首」より、前大僧正慈円

些末なことにとらわれない度量と世を見据える慧眼、異端の者にも貫いた公正さ、そして方向性はともかく強い法力。じっさい慈円が「中世きってか」はともかく、名僧の一人であったことは確かなようです。

大河ドラマも残り数回、慈円の名僧ぶりがどのように演じられるのか、最後まで見届けていきましょう。

※参考文献:

佐藤春夫 訳『現代語訳 徒然草』河出文庫、2004年4月 高楠順次 編『大正新脩大藏經図像』大正新脩大藏經刊行會、1977年11月 丸山二郎 校訂『愚管抄』岩波文庫、1949年11月

トップ画像:「鎌倉殿の13人」公式サイトより

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